Report

プレ研究会レポート Vol.2
第2回未来の人類研究センター
会議&研究会

2020.04.13

第1回の会議&研究会では、中島先生による「利他学」のお話がありましたが、第2回はセンター長の伊藤亜紗先生。「偶然」というキーワードを軸に、あらゆる角度から「利他」について語ってくださいました。

伊藤亜紗准教授による「利他と偶然」

まず伊藤先生は、理工系の学問では「制御」に対する基本的欲望があり、それに対して「偶然」は、「思い通りにならないもの」「理由のなさ」「理不尽さ」といった側面で受け取られることが多い、という点を指摘します。たしかに、理工系の研究は再現性が重視されており、「たまたま」その人あるいはその時だったからできた、というのは好ましくなさそうです。しかし、伊藤先生は、「偶然の自覚が『自分もこうなっていたかもしれない』という自己と他者の置き換え可能性をもたらす」という、自力と他力、あるいは運命に関する考え方を左右する大きなポイントであると話します。こういった想像力が理工系の学問には必要ないかというと、決してそうではないように思われますね。

さらに伊藤先生は、人間の身体に関する偶然性に話を進めます。身体が制御できない、ままならないものであることは、伊藤先生のこれまでの著書でくり返し論じられていることですし、私たちが日々生きている上でも毎日実感することでもありますね。そんな私たちの身体について、先生は「うまくやろうとすればするほどうまくいかない」と評します。そしてその身体とつき合っていく時間が、日一日と長くなるにつれて、その「ままならなさ」も含め、それが自分だという風に実感していくのかもしれません。

身体は、偶然与えられるもの。
生きる過程でそれを必然化していく。

伊藤亜紗
「偶然」を表現に盛り込んだ芸術作品もたくさんありますが、ここで伊藤先生は次のミケランジェロの話を紹介します。1520年代以降、ミケランジェロは、意識的に未完のままに置いておくという作品を多く残し、これを人々はミケランジェロの「ノンフィニート(Non Finito─イタリア語で「終わっていない」の意)」と呼んだ。また彼は、自らの彫刻作品に関して、「すでに大理石の中にあるものを掘り出しているだけ」と言っていたという説がある。いずれの話からも、“芸術作品とは、才能を持った作者が自らの能力によって作り上げたものである”といったような一般的解釈からは真逆の、「偶然性」や「自力と他力の境界の曖昧さ」が立ち上がってきます。

さらに話は偶然を軸に「コミュニケーション」へと移ります。ここで先生が取り上げたのは「粗いコミュニケーション」。このコミュニケーションにおける「偶然性」については、Rita Radio 001でも少し触れられていますので、そちらもぜひ参照していただきたいと思いますが、こちらで先生が紹介した例はまず、徳島県の海部町(旧海陽町)のお話です。

ここは自殺率が日本一低い町だそうですが、面白いのは、同じく赤い羽根募金の寄付率も低いそう。この2つの「低さ」には実は繋がりがあります。募金の寄付率には、「あの人が募金しているのに私がしないわけにはいかない」「あの人、募金箱の前を素通りした、と思われたくない」といったような、住民が世間の目を気にする気持ちが大きく左右するようですが、この海部町ではそれが薄い。つまり人間関係が緊密ではなく、よく知らない他人のことは気にしない、といったことを背景に募金の寄付率は下がり、その繋がりの希薄性によって自殺率も下がる、というのです。なんと興味深い話でしょうか。

また、この地域では釣れた魚をおすそ分けするのが常。ここまでは、お隣さん同士の繋がりがある共同体ではよくある話ですね。しかし海部町の人々はなんと、「もらう側の意向は関係ないから、あげたいと思ったひとがあげたいひとに魚を届ける」と言うのです。この地域では「外泊するときは鍵を閉めたほうがいい」と言われていて、その理由がまた驚くことに「数日後に帰ってきたら、部屋の中に腐った魚があって、においが取れなくて大変なことになったなんてことがある」から。これは精神科医の森川すいめいさんの著書『その島のひとたちは、ひとの話をきかない──精神科医、「自殺希少地域」を行く』の一節だそうですが、ここにはいわゆる「空気を読め」というところの、読むための「空気」がない、というお話がとても印象的でした。

人の話を聞くときは、一言一句聞き逃さず、すべて受け取ってじっくり考えるのが礼儀でもあり、それが良いコミュニケーションの第一歩、というような印象がありますが、これを文字通り実行してしまうと、それはそれで別の問題を生むということに気づかされるお話ですね。これについて、ある精神科医の先生は「患者の話を聞きすぎない」ことが重要、と話し、磯﨑先生は音楽を聞くときに「メロディは聞くけど歌詞を聴こうとしないほうが、その音楽が入ってくる」と話し、中島先生は「ものすごく影響を受けた人の講演の話の内容をまったく覚えていない」と話します。ここには「心眼」ならぬ「心耳」のようなものがあるのではないか、という話も飛び出していました。

話を聞いていない、話が飛ぶ、いい加減なコミュニケーション、というと、私は自分の祖母とその友人たちの会話が浮かびますが、ここで伊藤先生は認知症高齢者の話をしてくれました。彼らは「複数の時間」を生きていて、どんどん話が飛び、不意を打ってくる。それは「不和の原因」になりうるものでありながら「創造の芽」でもある。そんな話が飛び出したところで、國分先生が次のように話されました。

僕たちはある一定の間、
デカルト的な時間を生きさせられるんだけど、
高齢者になったら、また赤ん坊の時のように
それから解放されるのかもしれない。

國分功一郎

 

さらにここから話は「高齢者が徘徊しないように」するのではなく、「徘徊できる」町づくりを行っているという福岡県大牟田市の話を経て、最後に話題は「統計学と偶然性」へ。伊藤先生は「動機の外在化」をもたらす数値的評価が蔓延る現代において、「いかに内発性を取り戻すか?」という問題提起をします。伊藤先生は、このセンターのメインビジュアルである「焚き火」についても、時間感覚の話をしておられました(「Rita Radio 001」参照)。こうした数値的評価がもたらすのは動機の外在化だけでなく、時間軸を短くすること、短期的な目標や発想もあると思います。伊藤先生はこの問題について次のように話します。
今の時間軸の短さを超えたい。
時間軸を伸ばすと、偶然性が入るスキができる

伊藤亜紗

 

未来の人類研究センターの「未来」というのは、この時間軸を伸ばすことである、という、まるでドラゴンクエスト3のラストのような衝撃と感動を残して、第2回の研究会はとても伊藤先生らしく終わりました。
おまけ
「まともなものはマイノリティ」 若松英輔


(目撃と文・中原由貴)