- 2021.02.08 Mon 23:35
利他学会議:利他から始まる文理共創、2-DAYオンラインカンファレンス
©️ Naoki Ishikawa
コロナ禍で注目の集まった「利他」という言葉。
そこには、自己責任論や分断が蔓延する社会を
打開するヒントがつまっていると同時に、
注意しなければならない罠もあります。
未来の人類研究センターは、雑談や対話の中から生まれる
触発を大切にしてきました。
理工系の研究者と人文社会系の研究者、
そして現場の実践者が、画面越しに膝を突き合わせて、
「科学技術」「自然」「社会」をテーマに、
2日間にわたる濃密な議論を繰り広げます。
2021.3.13(sat)-14(sun)
対象:一般、本学教職員、学生
定員:2,950名(先着順)※人数制限枠を拡大しました
開催形式:ウェビナーによるオンライン開催
参加費:無料(要事前申込み)
主催:未来の人類研究センター
申込み
利他学会議中に開催されるプログラムごとに3種類のチケットをご用意しています。下記のリンクから「申込みフォーム」にとび、参加ご希望のイベントがあるチケットを選んで、必要事項を記入して送信してください。なお、イベント終了後のアーカイブ公開については未定です。
スケジュール
5人のメンバーと共に多様なゲストとの対話をオンラインで体感する2日間
分科会1利他的な科学技術
- AI
- ロボット
- 間
どんな人工物も、それをとりまく人や環境とのかかわりのなかで成立しています。「自律」ではなく「関係」、「制御」ではなく「共創」から見えてくる科学技術のあり方を、ロボットとAIの研究者とともに考えます。
Guest
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三宅 美博みやけよしひろ
東京工業大学 情報理工学院 教授
人間のコミュニケーションにおける潜在的チャネルである「場」の研究に長く取り組んでおり、その成果を共創システム理論としてまとめ、人と人工物のインタラクションとして工学的に応用している。現在は研究に加えて、東工大のデータサイエンス・AI全学教育の責任者として共創的人材育成の場づくりを進めつつ、WALK-MATE LABという大学発ベンチャーを興し共創的リハビリロボットの社会実装にも取り組んでいる。「場」の研究に興味を持ち続けたためか、これまでずっと拡張し続ける境界(ボーダー)の上を歩いてきたように思う。
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三宅 陽一郎みやけよういちろう
立教大学 人工知能科学研究科 特任教授
2004年よりデジタルゲームにおける人工知能の開発・研究に従事。立教大学大学院人工知能科学研究科特任教授、九州大学客員教授、東京大学客員研究員、IGDA日本ゲームAI専門部会設立(チェア)、日本デジタルゲーム学会理事、芸術科学会理事、人工知能学会理事・シニア編集委員。著書に「人工知能のための哲学塾」「ゲームAI技術入門」「人工知能の作り方」など。
分科会2自然と利他
- 宇宙
- 植物
- 生命
私たちは「弱肉強食」「適者生存」といった言葉で自然ととらえがちです。しかし、本当に競争だけが自然のすがたなのでしょうか。あるいは、自然は合理的なものなのでしょうか。天文学と植物学の研究者とともに考えます。
Guest
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井田 茂いだしげる
東京工業大学 地球生命研究所 教授
太陽系や太陽系外の惑星・衛星の形成理論や、生命存在可能天体の理論などが専門。東京生まれ、京大・理・物理卒、東大院・地球物理学修了。東大・教養・助手、東工大・地球惑星科学・助教授を経て現職。著書に『ハビタブルな宇宙』(春秋社)、『系外惑星と太陽系』(岩波新書)、『地球外生命』(岩波新書、共著)、『スーパーアース』(PHP新書)、『異形の惑星』(NHK出版)など。
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塚谷 裕一つかやひろかず
東京大学大学院 理学系研究科 生物科学専攻 教授
1993年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了、博士(理学)。東京大学分子細胞生物学研究所助手、自然科学研究機構・岡崎統合バイオサイエンスセンター助教授を経て、2005年より東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻教授。専門は植物学で、葉の形づくりの発生生物学がメインながら、東南アジアにおけるフィールドワークなども進めている。著書に『カラー版 スキマの植物図鑑』(中公新書)『森を食べる植物』(岩波書店)など。
分身ロボットとダンス
分身ロボットOriHimeのパイロットさえさん、ダンサー・振り付け家の砂連尾理さん、そして未来の人類研究センターの伊藤亜紗が、コロナ禍に入ってからスタートした、離れたところにある身体同士の関わりをめぐる研究。研究はまだ途上ですが、さまざまな実験の様子をおさめた映像を交えて3人で振り返ります。(協力=鹿島理佳子)
分科会3社会の中の利他
- 地域
- ふるまい
- 農業
利他は常に実践の中にのみあり、本来は言葉にして語ることのできないもの。同じ千葉をフィールドに、農村と都市をむすぶ新たな働き方や、サステナブルな農業のあり方について、実際に手を動かしながら実験されているお二人とともに考えます。
Guest
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塚本 由晴つかもとよしはる
アトリエ・ワン/東京工業大学 環境・社会理工学院 教授
1965年神奈川生まれ。1987年東京工業大学工学部建築学科卒業。1987 ~88年パリ・ベルビル建築大学。1994年東京工業大学大学院博士課程単位取得退学。1992年貝島桃代とアトリエ・ワンの活動を始め、建築、公共空間、家具の設計、フィールドサーベイ、教育、美術展への出展、展覧会キュレーション、執筆など幅広い活動を展開。「ふるまい学」による建築デザインのエコロジカルな転回を通して、建築を産業の側から人々や地域の側に引き戻そうとしている。
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小林 武史こばやしたけし
音楽家/ap bank代表理事
数多くのアーティストのプロデュースや楽曲制作、映画音楽など幅広く手がける。2003年に“サステナブルな社会のために”をテーマに非営利団体「ap bank」を設立。2006 年にはそのコンセプトを実践する場として「kur kku」事業をスタート。2010年には農業生産法人「耕す。」を立ち上げ、一次産業としての農業に着手。2019年には木更津市にサステナブルなファーム&パーク「KURKKU FIELDS」をオープンした。
全体会
理工系大学のなかの人文社会系研究
あらためて、利他とは何でしょうか。未来の人類研究センターのメンバー5名で、この2日間の議論を振り返ります。「科学技術」「自然」「社会」という3つの視座から見えてきた、利他学の新たな可能性とは何でしょうか。あるいは、いま求められている文理共創や地域連携のあり方とはどのようなものでしょうか。来年度の利他学研究に向けたヒントをさぐります。
未来の人類研究センターメンバー
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伊藤亜紗
センター長、東京工業大学 准教授、芸術
一年間の研究を通して私たちが出した暫定的な答えは、「うつわ」としての利他のあり方でした。能動的に行う善行は、自分の正義を押し付けているだけで、相手のためになっていないことが多い。ならばむしろ「うつわ」のようにスペース(余白)を持ち、見えていなかった相手の可能性を引き出すこと、そしてよき計画倒れを通して自分が変わることこそ利他なのではないか。利他学会議では、この利他のうつわに「科学技術」「自然」「社会」という三つのテーマを入れてみることによって、お互いに引き出される可能性をさぐりたいと思います。
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中島岳志
利他プロジェクトリーダー、東京工業大学 教授、政治学
利他的な行為を行うことで、何かいいことがあるんじゃないか。褒められるんじゃないか。そんな未来の利益のための行為は、一見すると利他的のように見えて、実はとても利己的なのかもしれません。この利他と利己のパラドクスを、どうすれば超えることができるのか。私は「業」という概念に注目しています。私に働く不可抗力に促された行為の中に、利他が宿るのではないかと考えています。利他は「する」ものではなく「宿るもの」。私にやってくる力に、自己を開くことができるかが、利他のポイントだと思っています。
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若松英輔
東京工業大学 教授、人間文化論
現代社会では「利己」の対義語として語られることの多い「利他」ですが、言葉の原義を探ってくると、「利他」は「利己」という言葉の存在を前提にしていないことが分かってきます。仏教の本質は「忘己利他(もうこりた)」であると書いたのは平安時代の僧・最澄ですが、この言葉に結実する以前から「利他」の本質はさまざまなかたちで語られてきました。儒教ではそれをあるときは「義」と呼び、キリスト教では「愛(アガペ―)」と称してきました。また、「利他」は「語られる」以前に「行われる」ことも少なくありません。孔子、イエスは別格として最澄、空海、道元、王陽明、中江藤樹、大塩中斎あるいは、マイスター・エックハルト、エーリッヒ・フロムなどにもふれながら、利他の公理とは何かを考えています。
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磯﨑憲一郎
東京工業大学 教授、文学
小説家の仕事とは、一般に考えられているような、作者のメッセージを作品に込めて読者に伝えることでも、現代社会が抱える課題を物語という形で炙り出してみせることでもなく、未知の領域に分け入るように一文一文書き進むことによって、小説という形式を更新し、小説の歴史・系譜に奉仕することなのだ。つまり、小説とは自己実現ではない、小説によって実現し、光を浴びて輝くのは、作者という個人ではなく、世界、外界の側なのだ。
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國分功一郎
東京工業大学 特定准教授、東京大学 准教授、哲学
研究会を続けながら、僕自身はずっと自身のテーマであり続けている責任の問題について考察を続けてきました。自分の「意志」で何かをするというよりも、自分を動かしている大きな力を認めること。この力は「運命」といってもよいかもしれません。それを認めた上で、それにもかかわらず、責任を引き受けるとはどういうことなのか。いま「責任responsibility」と「帰責性imputability」の概念上の区別を手がかりにこの問題について考え続けています。