- 2022.07.11 Mon 12:20
令和3年度手島精一記念研究賞 研究論文賞を木内久美子先生が受賞
東京工業大学の前身である東京工業学校/東京高等工業学校で25年以上にわたって工業教育に貢献してきた手島精一校長が退官するにあたって設けられた「手島精一記念研究賞」は、特に優れた研究や著述に対して授与されるもので、創設以来、長年にわたって東京工業大学における研究を奨励してきました。今年度は、研究論文賞、博士論文賞、留学生研究賞、発明賞、若手研究賞、著述賞として20件・27名が受賞しましたが、未来の人類研究センターのメンバーであり、リベラルアーツ研究教育院/科学技術創成研究院 准教授の木内久美子先生が、サミュエル・ベケットに関する論文で研究論文賞を受賞されました。
■手島精一記念研究賞 研究論文賞
木内久美子(東工大 リベラルアーツ研究教育院/科学技術創成研究院 准教授)
"Tweaking Misogyny or Misogyny Twisted: Beckett’s Take on "Aristotle and Phyllis" in Happy Days" Beckett and Politics (Palgrave and Macmillan, October 2020: pp.91-105.)
手島精一記念研究賞、および令和3年度の受賞者の詳細については以下をご覧ください:
https://www.titech.ac.jp/news/2022/063519
(東京工業大学ウェブサイト「令和3年度手島精一記念研究賞受賞者決定」)
先日開催された授与式で、文系の研究論文で初めての受賞を成し遂げた木内久美子先生が、受賞者を代表してスピーチを行いました。以下に全文を掲載いたします。
ご紹介にあずかりました、科学技術創成研究院・未来の人類研究センターおよびリベラルアーツ研究教育院の木内でございます。この度は手島研究論文賞をいただき、大変光栄に存じます。
東工大という理系の大学で、国内外の各分野の一線でご活躍の受賞者の皆様や、先生方・研究者の皆様を前に、私が受賞者を代表して一言述べさせていただくということで、大変恐縮しております。
それでもスピーチのご依頼をいただいて、お引き受けしたのは、この偶然を引き受けてみようと思ったからです。手島賞の論文部門にエントリーをしたとき、文系の研究論文の受賞がこれまでなかったのは知っておりました。それでも投稿してみたのは、教授会で出してみる人がいてもいいんじゃないかと、前研究院長の上田先生が、軽やかにおっしゃったからでした。記念受験ならぬ、記念投稿という気持ちもあり、文系教員には私のように本よりも論文を書く者もいることを知っていただければいいかなと思ったのです。ですので、受賞の通知をいただいたとき、とても驚きましたが、結果的にこれから論文賞に投稿する文系研究者が出てくるきっかけになれば幸いです。
またこの賞をいただいたおかげで、偶然にもふだんは可視化されない、学問のコミュニティの存在やつながりをあらためて発見できました。リベラルアーツの教授会で受賞が伝えられたあと、同僚の複数の先生からお祝いの言葉をいただき、とてもうれしかったのですが、なかでも特に文学を研究しておられるある先生の言葉が心に残りました。
東工大で文学、しかも文学でも高踏派向けの難解なサミュエル・ベケットという作家についての論文が手島賞を受賞したことは、そういう文学研究にも東工大での居場所が与えられているということ、このことが確かめられたことが、とてもうれしかったといってくださったのです。学問の公共性という密かな私の信念を、この先生のお言葉が偶然にも明確にしてくれたのでした。
こうして色々な方々から少しずつ何かを分けていただいて、いまここに私が立っています。ですから、この受賞は、これまで私と出会ってくださった方々への賞でもあり、そのような方々が、私と一緒に受け取ってくださる賞なのだと感じています。ことにいつも難しくてよく分からないことを考えている娘を、それにもかかわらず支えてくれた両親に、この場を借りて、感謝を伝えたいと思います。
私がベケットを通して考えてきたこと、それはベケットの次の言葉に集約されているように思います。
書かれたものはすべて、発話なきものにたいする罪である。その沈黙に「かたち」を見出そうと努めること。長寿だったイェイツやゲーテといった数少ない作家だけが、その試みを続けられた。だが、彼らは既成の「かたち」やフィクションに依拠していた。(…)そのような形を回避する方途を探すこと。
この発言を細かく説明する時間はありませんが、「発話がない」存在とは、その発声が日常的には人間に知覚されない存在といえます。そこには植物や鉱物も含まれるでしょう。また声は出せるが、その言葉が必ずしも有意味な言葉になっていない、動物や乳児も含まれるかもしれません。さらに拡大解釈をすれば、ある社会の場で言葉を聞いてもらえない人、社会の常識や特定の政治システムといったフレームワークのなかで、声=主張が封じられている人々も含まれています。
さらにベケット作品では死者の存在も想定されていました。第二次世界大戦中、フランスでレジスタンスに参加したベケットには、強制収容所に送られた友人も複数いました。ベケット作品のなかでも日本でもっともよく知られている戯曲『ゴドーを待ちながら』には、私たちが耳を傾けるものを、自らの理性から死者の声へ、死者の声から翼のこすれる音、翼のこすれる音から、葉のそよぐ音、砂、灰へと展開していく、言葉遊びのようなセリフがあります。
では書くことが「発話なき人に対する罪」というのはどういうことなのでしょうか。書くこと、すなわち言葉を用いることには、常に意味伝達が伴います。意味があるからこそ、「発話なきもの」の言葉を翻訳しようとできますし、理解しようとできます。
ですが、同時に覚えておくべきなのは、「発話なきもの」には文字通り「発話がない」ということです。ここには翻訳不可能性が立ちはだかっており、私たちがそれを言葉に言い換えるとき、そこには倫理的問題が生じています。作家が「発話なきもの」について理解したことを、あたかもその存在が語っているかのように書くことは罪だ、ということです。言葉を持つ立場にある人こそ、このことを忘れてはいけないということです。
「罪」というのは大げさかもしれません。ただベケットがここで「言葉」ではなく「形」を見出すことを自らの課題として据えたのは、このような「発話なき」他者の存在を、言葉でとらえるだけでなく、その存在の未知性も含めて、常に不可解なものが残る他者として、それとして示すべきだと考えてもいたからでした。それは他者性にたいする誠実な一つの応答だといえるでしょう。
学問における偶然とは、そのような理解不可能なものが、理解の導きの手をふと差しのべてくれる瞬間なのかもしれません。これからもその偶然のひらめきに耳を傾けながら、文学に携わる者として、過去にその偶然の痕跡を探し、それを未来に託すことばを求め、知だけではなく感覚によっても知をつないでいくような研究をしていきたいと考えております。
本日はどうもありがとうございました。
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院のウェブサイトにも掲載:
https://educ.titech.ac.jp/ila/news/2022_05/062417.html
この記事に登場するメンバー:
木内久美子先生