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第12回 利他と受容——〈意味〉を紡ぎ出す 北村匡平

2021.11.01

山崎太郎さま、木内久美子さま

個人的な出来事

 お二人のアスパラガスと「におい」、そして死と記憶の共有/継承のエッセイを拝読し、ものすごくディープな世界へと誘われました。五感の中でも「におい」と他者の関係については確かに盲点だったように思います。視覚は目を閉じれば見なくてすみますし、味覚も食べなければ嫌な味を避けることができますが、「におい」の浸食性というものは自/他の境界を容易く超えていく。だからこそ他者との境界を攪乱し、安定した関係性を一変させるほどコミュニケーションに作用することもあります。こうして冒頭から応答していくと、深みにはまって抜け出せなくなりそうなので、今回は最近起こった身近な出来事について話してみたいと思います。

 僕はドライブが好きで、一人でよく夜中に車を走らせることがあります。といっても車にこだわりがあるわけではなく、ただ夜の街を眺めてコーヒーを飲んだり音楽を聴いたりしながら、ただ運転するだけ。特にコロナ禍になって、外出をなるべく避けて部屋に閉じこもる生活になったので、自分のメンタルのバランスを取るためにも、社会とは隔離された密室空間に身を委ね、それでも家の外に出かけられる安全な場所として、この時間をとても大事してきました。
 数週間前のことです。三車線ある交通量の多い道路で信号待ちをしていたら、突然、助手席のドアを「コンコンコン!」とノックする音が聞こえてきました。何事かと思って窓を開けると、30代くらいの男性が立っています。状況が飲み込めず「はい?」と応答すると——その一瞬、頭をよぎったのは僕がノリノリで音楽を聴いていたせいで気づかないうちに車が接触したのかなということでした——、どうやらその男性は後ろの車に乗っていて赤信号で急いで僕の車に駆けてきた様子、僕に向かって車の後方を指差しながら焦った声でこういいました——「給油口!給油口の蓋が空いたままですよ!」。八王子方面からの帰り道にガソリンが少なくなっていたのでガソリンスタンドに寄り、給油口の蓋を閉め忘れて、そのまま車を走らせていたのです。
 信じてもらえるかわかりませんが、僕はこの道路上のやり取りが、今年起こった他のどんなことにも勝る嬉しい出来事になりました。自分でも不思議なのですが、その後もほぼ毎日思い返すほど、心にしみる経験となったのです。なぜだろうと思いながら「利他」の視点で捉えてみると、すっと腑に落ちました。これまで未来の人類研究センターで議論されてきたように、利他的な振る舞いは時に偽善的な行為と見なされ、利己的な営みに転倒してしまうことが往々にしてある。そこに「利他」特有の難しさがあります。
 ただ、なぜこの出来事に「利他」を見出せたかというと、お互いに見ず知らずの他人であり、交通量も多く、危険であるにもかかわらず、それを顧みずに知らせてくれたこと、そして何の見返りもなく、突発的に行動を起こしてくれたことが見て取れたからです。目の前にある危険を察知して他者に知らせようと不意に体が動くという感覚——。そこに「利己的」な要素はまったく感じられませんでした。たとえば、仮に彼の車にパートナーが乗っているとして、それが僕の視界に入っていたら上記のようには受け取れなかった可能性もあります(むしろ称賛されたいという「利己的」な欲望を読み取ってしまうかもしれません)。偶発的な出来事に際して、さまざまな条件が重なり、それが「利他」として「生成」した、そのように表現したほうが的確かもしれません。逆に「与え手」がこの行為は「利他」だと意図/予期して振る舞うと「偽善的」であることを拭い去ることができず、「受け手」も猜疑心に駆られてしまう。それではどのような時に「利他」は純粋に「利他」として立ち現れるのか、「利他」が作動する構造を、もう少し詳しく双方向から考えてみたいと思います。

コミュニケーション・モデルとしての利他

 今回は、最近センターの議論でも頻繁に出てくる「受け手」の視点にフォーカスして考えてみます。イギリスの思想家であるスチュアート・ホールは、現在のメディア研究や文化研究に幅広い影響を及ぼしており、とりわけ有名なのが「エンコーディング/デコーディング」理論です。1973年の国際学会での発表をもとにしたものなので半世紀近く前の古い議論なのですが、批判的に検証されつつも幾度となく参照され、今もなお非常に重要な視点を提供してくれます。このモデルは北米を中心としたマス・コミュニケーション研究を批判的に検証して新たな理論を提示したものとして知られています。それまではシャノン=ウィーバーのコミュニケーション・モデルが多大な影響力を持っていました。この情報工学的なモデルは「送り手→〈メッセージ〉→受け手」におけるコミュニケーションを循環的なもの、もしくは直線的な回路と見なしていましたが、ホールはそれに対する批判を踏まえて、メッセージの生産/消費は「コード化/脱コード化」の瞬間の諸条件(知識の枠組み/生産関係/技術のインフラストラクチャー)によって重層的に決定されることを重視したのです[1]。ここで大事なのは、「受け手」が単一の均質化された大衆ではないということ、すなわち、テレビ・オーディエンスはさまざまな社会的文脈に依拠し、異なる属性を持つため、脱コード化に際して多様な〈意味〉が構築されるという点です。
 ごく簡単にいえば、「送り手」が意図したメッセージが「受け手」にそのまま伝達されるのではなく、そのプロセスの中で変形し、受容のコンテクストによって多様に解釈されるということです。言い換えれば、「送り手」がまったく想定もしていなかった〈意味〉が「受け手」によって見出されることもあります。ホールは、視聴者が「支配的/交渉的/対抗的」な三つのポジションを取りうるとしました。「支配的」なポジションとは制作者がテレビ番組にコード化したメッセージをそのまま受け取る立場、「交渉的」なポジションとは部分的に同意し、その他の部分に関しては批判的な立場、「対抗的」なポジションとは送り手の支配的コードとは異なるコードで意味を解釈する立場です。
 たとえば敗戦後すぐに製作された成瀬巳喜男の『めし』(1951)は倦怠期を迎えた夫婦を描いた映画で、妻が家出して実家に帰り、最終的には外で一生懸命に働く男性のそばに寄り添って生きていくことが「女の幸福」であることを見出して終わります。現代の観客ならば違和感しかないかもしれません。ですが、当時は大絶賛されて数々の映画賞も受賞し、キネマ旬報ベストテンで小津安二郎の『麦秋』に次ぐ第2位。当時の批評家や観客の多くは、製作者=送り手がコード化したメッセージをそのまま受け取ったわけです。この「支配的」な立場に対して、男性が外で働いて女性がそばに寄り添って支えることが「幸福」だというのは権力者のイデオロギーにすぎないと「対抗的」な「読み」をする人もいたでしょう。こうした「読み」の多様性は、脱コード化される際のコンテクストにかなり依拠しています。すなわち、送り手が伝えようとする〈意味〉は、「受け手」の読解次第で大きく変容するのです。

利他が生起する時

 さて、ホールのモデルはテレビ分析を想定したものですが、これを利他の〈意味〉をめぐるコミュニケーションの「与え手→〈意味〉→受け手」という図式に応用して考えてみたいと思います。たとえばある企業が困っている人びとに多額の寄付をするとします。これはきわめて「利他的」な行為ですが、そのことを公言すると、企業価値を高めて社会に称賛されたいというアピールを読み取ってしまい、一気に「利己的」な営みへと転じてしまう。会社に限らず人でも同じです。「受け手」からすれば、とくに数値化できるものや品物は相手に「負債感」を意識させやすいため、施しを与えられたという不均衡な関係に苛まれるかもしれません。こうした状況においては、「支配的」な立場として利他的な〈意味〉を受け取ることが難しく、「与え手」と「受け手」の受け渡しには「利他」は発動しないでしょう。
 それでは、なぜ冒頭に記したドライブのケースでは、純粋に利他的な行為だと受け止めることができたのでしょうか。もし僕が給油口の蓋などあけたままでも平気だと思っていたら、彼の行動からそれほど「利他」を受け取れていなかったかもしれません。上述したように、後ろの車にパートナーが同乗しているのが見えたら少し違った〈意味〉を「対抗的」に見出していたようにも思います。あるいは、そこが地方の田舎道での出来事だったらどうでしょう。両車とも窓をあけはなしていて車を降りずに後ろから大声で「給油口の蓋、締め忘れてますよ!」と言われていたら、きっとまた違っていたと思います。車を飛び出して「コンコンコン!」と窓を叩く音量とスピード感が、その男性の焦りを十全に伝えていましたが、この音の質感を聞き損なっていたらまったく違っていたと確信しています。あのスピードが遅かったら、あの突然のノックの音量が小さかったら、窓があいていて声だけだったら……と考えれば考えるほど、どれが欠けてもいけない、言うなれば細部の条件の連関がきわめて重要だったことがわかります。
 ここまで実際に起こった出来事において、「利他」を規定する状況や環境について触れましたが、もちろん「受け手」自身の「身体」の状態も「利他」が作動する重要な条件の一つです。よく考えてみると、こうした親切に遭遇することはたまにあります。しかし、当然ながら、その時々の心身の状態によって感受の仕方も異なります。実はこの時、体調を崩して2週間近く何もできない状態が続いていました。そして何より、同じ映画研究でかつて一緒に仕事をしたこともある、僕よりも若い研究者の知人が命を落としたことにとてもショックを受け、引きずっていたのです。亡くなる数日前、ご一緒するはずだった仕事の打ち合わせをする予定で、メールでやり取りをしていたところでした。忙しくも彼女のキャラクターがにじみ出た元気そうな言葉を受け取った直後、あまりに突然のことで深く傷つき、精神的にも肉体的にも弱っていた時のことだったのです。
 こうして「受け手」がメッセージを受ける時の環境や条件を考察してみると、(大仰な言い方ですが)モノも含めたすべてのアクターが完璧なネットワークを取り結んで純度の高い「利他」を生成させていたことに気づかされます。「与え手」が意図的に「利他」を生み出すのではなく、「受け手」も「利他」としての〈意味〉を協働的に作り出す。このように「利他」を捉え直すならば「与え手→〈利他〉←受け手」という関係で考えたほういいように思います。「与え手」と「受け手」の実践、このどちらが欠けても成立しない、相互に紡ぎ出されるものが「利他」の本質だといえるのではないでしょうか。

 今回、僕が綴ってきた経験談は、その現場で突発的に起こった出来事でした。もちろん、このようなあり方とはまったく異なる、長い年月をかけて大きなスケールで伝達される「利他」もありうるでしょう。木内さんが書かれていたように、長い時間を経て死者/過去と関係を結び直すということもある。「与え手」の振る舞いや言葉が、思ってもみなかったところで時間をかけて「受け手」から「利他」として再発見され、「与え手」と出逢い直すこともあります。重要なことは、利他とは普遍的に定義づけられる概念ではなく、「与え手」と「受け手」双方の営みが奇跡的に符合することによって生み出される、きわめて個別具体的で交互構成的なものであるということです。「受け手」が受け取る時の文脈、身体、環境——こういった細部の条件や環境を捨象せずにつぶさに見ていくことが利他学において肝要なのではないでしょうか。
[1]Stuart Hall, “Encoding/decoding.” In S. Hall, D. Hobson, A. Lowe, & P. Willis (eds.), Culture, Media, Language, Hutchinson, 1980, pp. 128–38.