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第14回 第14回 笑いと利他 木内久美子

2022.01.27

北村匡平さま、山崎太郎さま

 リレーエッセイの最終ラウンドです。返信に長らくお時間をいただいてしまい、すみませんでした。
 よい機会なのでこれまでのエッセイを読み返してみました。興味深いことに、返事を書いたときよりも、お二人の書かれた内容がすっと入ってきました。このエッセイが始まったとき、私は憑依や自他の境界の揺らぎといった発想には慎重でした。他者はどこまでも分からないものであり、その他者性は死守されなければならない、それが他者に対する倫理だと考えていたからです。今もその姿勢は変わりませんが、自他の境界の揺らぎは出来事であり、他者性がたえず自己に入り込んでくる、それは他者の訪れであるということを、以前よりは感覚的に受け入れられるようになりました。
 また再読してみて、「たまたま」「偶然」「不意に」などといった不測の事態を表す言葉が多く用いられていることに気づきました。(特に北村さんが担当された第3回のエッセイの「ごんりないし」には、あらためて驚かされました。)利他と偶然性とが不可分の関係にあることは、中島岳志さんが昨年出版された『思いがけず利他』(ミシマ社)の4章「偶然と運命」で、九鬼周造の哲学に言及しながら論じておられます。その他にも、このエッセイで展開されてきたさまざまな論点が、中島さんの本の内容とかなりシンクロしてます。内容を相談しあったわけではありません。研究会を通して相互浸透が起きていたのでしょう。
 前回のエッセイで北村さんがこう書かれていました。利他は「個別具体的で交互構成的」であり、その訪れは「「受け手」が受け取る時の文脈、身体、環境」などの「細部の条件」に左右される、と。
 このエッセイでは、利他の記述方法の模索として、まずは一つの挿話をおいてみることにします。
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 去年の年末、近しい友人が久しぶりに連絡してきました。5歳の子供が幼稚園でコロナ感染症の濃厚接触者になってしまい、1月7日まで自宅で経過観察をすることになったと言います。
 かつては近所に住んでいて、頻繁に行き来がありました。子供もよく知っています。コロナに罹ったら…。そういう思いと同時に、エネルギーにあふれている子だから、天気のよい正月に、ずっと家にいるのは気の毒だなとも思いました。とはいえ、私には何もできません。コロナ禍で仕事をしながら小さな子供を育てるのが大変だろうとは、自らの想像力の限界に申し訳なく思いながらも、想像しつづけてはいました。とはいえ、諸事情もあり感染予防の観点から、会うことは難しく、連絡を保つのが精一杯でした。
 それでも、何かしたかったのでしょう。なんとなく、本棚からしばらく動いていなかった絵本を眺め、気晴らしになりそうな本を四冊ひっぱりだし、中身をざっと確認しました。送ってみればいいかなと思ったのです。これまでもたくさんの絵本を送ってきていて、いつでも読んでくれていました。
 郵便局はすでに年内の業務を終えていました。それに私はその日、実家に帰ることにしていました。とりあえず四冊の絵本を鞄に放り込み、夕方、実家近くのコンビニでレターパックを買いました。去り際、レジ前に置いてある簡易ポストにこう告げられました。どうみても四冊は無理ですよ。たしかに投入口にその幅はなさそうでした。
 夜、実家でダイニングテーブルの上に絵本を並べてみました。年始に友人の手元にあってほしいから早く送りたい。とりあえず二冊選べばいいかな。しばらくすると母親が隣に座って、「みていい?」と聞きました。「どうぞ、どうぞ」。
 いつものこと――そんな様子で、母親は一冊の本を手に取ると、大きな声で朗読を始めました。出くわしたことのない光景で不意を突かれましたが、マイ・スタイルの母なので、声に出すのが流行っているのだろうくらいに思いました。朗読は時々、自問自答に中断されます。フーンとか、ハーンとか、これは誰だ?とか。そんな感じです。
 私はさっさと絵本を読み終えて、どの本を送ろうか考えていました。
 そのとき急に朗読の声が止まりました。どうしたのかと思ったら、隣で母親が笑い始めました。
 「なにこれ! あなたこの本もう読んだの?」
 「えっ?」
 「全然意味が分からない!「もうし、もうし、こん、ちら、どうぶつ、えんまん?えん、のん、こうん? ばらん、ばらん? でれんす! どんぞおー!」」
 つまずいたり疑問符がついたり、なにを言っているのやら、さっぱり分かりません。読み直したら余計におかしくなってしまい、その笑いをこらえてますます声が上ずってくるので、分からない言葉がさらに散り散りバラバラになっていきます。二度、三度と同じ文をなぞっていくうちに、朗読するリズムだけは整ってきますが、意味はまったく分からないままです。

 母はなんとなく気が済んだらしく、次の文に進みます。
 「「これはね、じしんでゆれているから、こんなへんないいかたになったんだけど、ほんとうはね、「もしもし。こちらは、どうぶつえんまえの、こうばんです。どうぞ!」といっているんだよ」、ああ、そういうことか!」
 母はしてやられたという様子で感に入り、「もしもし。こちらは、どうぶつえんまえの、こうばんです。どうぞ!」と、もう一度、今度は滑らかに一息で読んでから、深呼吸しました。
 ページをめくる音。
「「たんだんいん……」」。
「「たんだん……」」。
 クスクスはケラケラというけたたましい声に飲み込まれて消え、言葉を読もうとする喉にはカサカサとした呼吸が張りついて、もはや音になりませんでした。身体は笑いではちきれんばかり。
 でも、もう一人の母は意地でも朗読を続けたいらしいのです。
 「たんだ…、たんだ…」。
 「たんだ…、た…」。
 その様子にのまれて、もう一緒に涙を流して笑っていました。
 「たん…」。
 言葉はどんどん笑いの海に流れていき、全身が九の字に曲がり、体中がヒリヒリしてきました。
 ひぃひぃ。
 二人ともひっくり返されて息ができないカエルも同然でした。

 やがて少しずつ発作がおさまってくると、母は意を決したように、あらたに絵本に向き合いました。
 「「たんだん…」」。笑いが声を押し戻す。
 「「たんだん…いんまん…」」。声が笑いを押し返す。
 「「たんだん…いんまん…、だん、いんず、んすん…」」。朗読を回復する兆し。
 「「たんだん…いん、まん、だん、いんずん、すんはん、せい、れえす。どんぞお」。
 そういってもう一度、母は、今度は一文すべてを声に出して読みました。
 「「それから、おまわりさんは、「たんだんいんまん、だんいんずんすん、はんせいれえす。どんぞお」といった。/これは、なんといったかわかるかしら。ここで、すこしおやすみをして、かんがえてみてちょうだい」」。
 「考えてますよ」。
 「かんがえてみてちょうだい」――このあとに続く永遠の三点リーダーは40個。何だろう、この点は…。話題をそらしたところで、答えは出ないままです。呆然としていると、母が得意そうに「「はい、これまで」」と本を読み進めました。
 「「いまの、じのないところは、かんがえるじかん/だったんだよ。では、おまわりさんが、なんといったかおしえよう」」。
 私が思わず身を乗り出すと、母親はおそるおそる朗読しました。
 「「ただいま、だいじしん、はっせいです。どうぞ!」」
 母はまたしてもやられたという顔をして、繰り返しました。
 「ああ!「ただいま、だいじしん、はっせいです。どうぞ!」なるほど!」。
 「なるほど!」

 母親はこの後、無事に朗読を終えました。
 「こんなに笑ったの、10年ぶり。おもしろかった!」

 私の予測に反し、友人はこの話には触れず、同じ本に収録されたもう一つの話について「自分らしくないことをしようとしてもダメなのね」と返事をくれました。幸いにも感染は免れたとのことでした。
***
 お二人はこの挿話から、この出来事が起こったときの文脈、身体、環境をどのように受け取られたでしょうか。
 この文章はリレーエッセイとはまったく無関係な文脈で書かれたものです。個人的なことで恐縮ですが、10月以降、色々な出来事が起こり、あまり意識していなかったのですがコロナ禍での生活のひずみもあったのでしょう、12月には精神的に低調で、仕事に集中できない日が続いていました。授業準備には変わらずに取り組み、学生とも楽しい授業時間を過ごすのですが、原稿を書くという孤独な作業が滞りました。そもそも気持ちが乗らず、本が読めない。それでも無理に読んで書こうとする。すると、ひとつの言葉が次の言葉をブロックするように連なって、行く手をふさいでしまうという感じです。書けば書くだけブロックが高くなり、急がば回れ。ついには方向感覚を失い、止まってしまいました。書くことは生きることと決してイコールではないはずなのですが、書けないことがつらく、日常の日々に影響を及ぼしていました。そういうタイミングで正月がやってきて、半ば強制的に作業を中断して実家に戻ったという具合でした。
 この出来事に遭遇する直前に、村上靖彦さんの『交わらないリズム:出会いとすれ違いの現象学』という本を読んでいました。村上さんは長年、看護師の「語り」を収集し、その死生観や看護観、また患者と患者家族との接し方などを明らかにされています。この書物では、語られる内容もさることながら、それが伝えられるタイミングの重要性が、中井久夫や木村敏などの精神病理学者の知見に依拠しつつ論じられています。村上さんは、テンポやリズム、メロディーなどの音楽のコンセプトを展開しながら、ベースにテンポがあり、それぞれの人が同時に複数のリズムを生きながらも他者に寄り添うことで、バラバラだった複数のリズムが、その複数性を保ちながらも整っていき、テンポが合っていくのだと論じています。この本を読んでいて、私はテンポを合わせられていない、目の前のことよりも未来に起こりうることから悪い予兆を読み取って、焦って空回りしているのだなとは感じていました。
 ということで、この挿話の裏のテーマはテンポとリズムでした。
 お二人も含めて、本を読める人なら、挿話のなかのなぞかけの答えはすぐに出てしまったでしょう。にもかかわらず、くどくどとエピソードとして述べてみたのは、長新太さんの『どうぶつたちがはしっていく』のうち、母親が朗読に苦しんでいた600字程度の該当箇所を読むプロセスを記述してみたかったからです。またその記述から、朗読のテンポを伝えられるかどうかも試してみたかったのでした。
 文字数と速度とを結びつけるのは短絡的ではありますが、ニュースキャスターの朗読は1分で300字と言われています。600字ということは、途中でつかえなければ2分の計算です。母親の朗読のスピードはその三分の二くらいの速度で、かつそれが止まったり繰り返したりしていました。そういうプロセスを文字で説明するだけでも1800字は必要だったのです。それ以外に行間に示された間や、笑っている時間があるので、かかった時間はいかほどか。そのときはそんなことを考えもしませんでしたが、この絵本を読むためには、その時間が必要だったのです。
 理想的な読書というのは、読む本のテンポやリズムに少しずつ自分がチューニングされていき、その世界がふっと入ってきている状態で本を読めることです。ですが、この絵本に関していうと、私の読書は明らかに急いでいました。絵本のテンポに合わせる余裕がなかったのです。また一人で黙読していたときには、ナンセンスなセリフには気づきましたが、たんに面白いと思っただけで通り過ぎてしまいました。他方、母親のたどたどしい朗読は本のテンポに合っていた。だから本の魅力を引き出せ、そして私をも巻き込んだ笑いを引き起こすことができたのでした。
 そしてそのとき少し動けなくなりかかっていた私は、この「笑い」のおかげで少し動けるようになりました。
**
 とはいえ、この「笑い」とは何だったのでしょうか。振り返ってみると、これまでのエッセイで取り上げられてきた様々な意味で、「利他的」なものだったといえるかもしれません。どういうことでしょうか。
 「ここで、すこしおやすみをして、かんがえてみてちょうだい」。
 私を観客、母を朗読者として記述してみます。
 まず観客が最初は受身だったということです。観客はとりたてて朗読を聞こうとしていたわけではありませんし、朗読者も観客を意図的に笑わせようとはしていませんでした。そもそも朗読者は観客の存在など想定しておらず、目の前の文字を理解するのに必死でした。その没入ぶりゆえに、どこからか降ってきたかのような笑いも爆発的で、だからこそ強力に観客に響いた。朗読のたどたどしさは少しずつ観客をひきこみ、観客にも笑いが伝染した。そのとき観客も全身で笑っていたのです。
 第二に、笑いの対象が何だったのか、笑っていたときには分かりませんでした。当然と言えば当然ですが、そもそも笑いながら、なぜ笑っているのかと原因を問う余地はありません。つまりここでの笑いは、笑う人と笑われること/人との境界、自他の境界を宙づりにし、因果的な思考を停止させるようなものです。
 第三に、ナンセンスが堂々と受け入れられているということです。これは音韻の効用でもあります。「たんだんいんまんだんいんずんすんはんせいれえす。どんぞお」。足踏みのように刻まれる「ん」の連続は、観客には楽しいリズムでした。それに「ん」の繰り返しは、たまたま観客のなかでは、好きな宮城の方言(「~けらいん(~してください)」、「あがらいん(家によっていって)」など)にもきこえて、別に行き詰っている印象を与えませんでした(後日談:本人も方言のようだと感じていたそうです)。そもそも、この観客は分からない外国語を聴くという趣味の持ち主だったため、朗読を意味と結びつけようという積極的な努力を簡単に放棄していたようです。
 日常言語には慣習的な会話の型があり、話の場では常に自然さが要請されています。そこでは有意味な会話が交わされるのが大前提で、私たちはいつでもそこから逸脱しないようにどこか緊張しています。ユーモア(humour)は会話を逸らさないかぎりにおいて歓迎されますが、ナンセンスは常識にとっては最大の敵です。他方、『どうぶつたちがはしっていく』では、その逸脱が主役なのです。ナンセンスは常識のこわばりを解除し、意味を音楽の楽しさに変え、観客の驚きを擁護します。
 第四に、朗読者においては、意味の探索からリズムによって身体が動くことへの転換が生じているということです。朗読者にはナンセンスな字面から有意味を生み出すことが要請されています。つまり意味を見つけることは、同時に朗読のリズムを見つけることでもある、意味が分からなければ、正しいリズムは見つけられない、というわけです。とはいえ、意味が分からないまま朗読し、その言葉を発する自分の声を聴き、再び体当たりで反復しているうちに、理解の前に声が出る、意味重視のリズムとは全く別の、意味が分からないままの反復によって生み出される独自のリズムが際立ってくるのです。身体はそのことに気づかぬまま、依然意味を探しているという姿勢でいますが、身体は意味が分からなくてもいいほうのリズムに少しずつチューニングされていく。それが何となく楽しいのです。そうすると意味探しという姿勢に身体の動きはますます沿わなくなっていきます。本来の目的からはますます逸脱していく身体。この逸脱が朗読者自身の笑いに結びついたのかもしれません。
 では観客はナンセンスの罠にはまった朗読者を笑ったのでしょうか。
 もちろんそういう笑いもあります。他者を笑う「嘲笑(ridicule)」です。「笑い」といえば、まっさきに挙げられるのがアンリ・ベルクソンの『笑い(Le Rire)』(1900)ですが、「滑稽」全般が論じられるなかで、他人をいたずらの実験台にする人や他者を観察して笑う人の例も扱われています。ベルクソンによれば、「笑い」とは、徹底的に外的な感情を排した知的な行為です。というのも、他者とのあいだに愛情や同情などの感情が介在するかぎり、その人を笑うことはできないからです。笑いに伴うのは「無感動」であり、それは「理知」の働きによって生ずるものだとベルクソンは述べています。
 この理知は、私たちが常に社会や生活といったものに適応しようとする社会的な存在であることを前提としています。笑われてしまう人は、うまく適応できていないのです。例えば、自らの意に反して余計なことを言動で表現してしまったり(「不本意」や「不器用」)、マイワールドにはまりこんでいて慣習に合わせられなかったり(例えばドン・キホーテの「放心」)します。
 と同時に、笑われる人が笑う人の常識の滑稽さを照らし出すという側面もあります。このような定義の背景にベルクソンが想定しているのは、西洋演劇、特に喜劇の伝統です。喜劇ではストック・キャラクターという典型的な人物の型がある程度決まっています。例えば愛し合うが社会的身分の差ゆえに結婚できない若い男女、ケチな富豪、召使いや道化などです。「賢い愚者(wise fool)」などもその例です。自ら愚者としてふるまい、実際に愚者として社会的には軽蔑されているものの、実際には知恵があり真実を知っている。シェイクスピア劇の愚者やエラスムスの『痴愚神礼讃』(1511)の女神がよく知られています。
 とはいえ、観客である私の笑いは、朗読者である母親を観察した理知的なものではなく、むしろ身体的なものだったように思います。再びベルクソンの言葉を借りれば、それはむしろ、笑いの「反響」ともいえるようなものです。
 この感覚は、例えばサーカスを見ているときの経験に近いものです。空中ブランコに乗る演技者をみているうちに、身体がブランコの揺れに合わせて動きだしたり、手を放すときに緊張して体がこわばったりする。バスター・キートンの映画を大きなスクリーンで観たあとには、人気のないまっすぐな夜道でかけだしたくなる。(この身体的なシンクロニシティについては、生理学的な説明もありますが、ここでは触れません。)
 こういう身体によるリズムのチューニングがある一方で、スラップスティックでは、人が機械的になっていくおかしみもあります。典型的なのは、二人組がスリッパでお互いを叩き合ったり、ケーキを投げ合ったりする演目です。理由もないのに叩き合いが始まる。最初は遊び程度なのに、そのうちに叩いたり投げたりする手の動きが激しくなり、ついには止まらなくなってしまう。こうなると人間の意志の制御を離れて、身体で叩く動きが自動化されているかのようです。人間から機械/物への転換(あるいはその逆)の笑い。この種の笑いに敏感なのは大人よりも子供なのだなあと、サーカスを見ながら考えたことがありましたが、この種の笑いもベルクソンの論じているところです。
 ベルクソンは笑いの「反響」という表現を、集団の笑いという文脈で用いています。「笑い」が前提としているのは、それが置かれた環境であり社会である。人々がそれを共有しているから、笑いは反響するというのです。言い換えれば、それを共有していない人や、孤立感を抱え、その情緒に沈潜している人には笑うことができない、と。もちろんそういう種類の笑いがあることも事実です。ですが、同時にそれをこえていく笑いや身体のリズムもある。笑いには社会に合わせられているから、そういう幸せな人たちだから笑えることもあるかもしれません。他方、笑えたから幸せだと感じることもある。社会に合わせられていないというズレの感覚。そのズレを否定的なレッテルから解放し、肯定的にとらえる。それはズレている人が必要としている生存戦略ではないでしょうか。あらたなテンポを生み出す。ときには無意味として遊び、新たな意味を創造しようとする。もしその過程で失敗しても、身体全体で心置きなく笑えるとき、少なくともその瞬間、私たちは幸せなのです。
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 このリレーエッセイでは、自分が書いているというだけでなく、たくさんの方が巻き込まれてくれていることが大きな助けになりました。例えば締め切り。誰かを待たせているから、手元のギアを「書き続ける」から「書き終える」へと方向転換をしようという力が働き、最終的に「あきらめる」ことができました。かりにずっと一人で書き続けていたら、始まりも終わりもありません。やめることには勇気がいりますが、「あきらめ」がない世界、他に選択肢がない世界はつらいものです。締め切りがあると、限界/終わりに向かう力が、自ずと区切りをつける瞬間があり、そうして原稿を終え(させ)られる。終わりがあるから取り組めるし、あきらめられるからまた始められるのです。後から読み返すと恥ずかしい文章ばかりでも、それは具体的な再出発点になってくれるでしょう。
 また自分が書いたものが読まれているという感覚も、とても助けになりました。リレーエッセイという形式で文章を書くのは初めてでしたが、お返事をくださるお二人の先生方、編集をしてくださる方、ときどき読んだよといってくれる知人・友人など。文章は終わらせるのと同じくらい始めるのも大変ですが、このような人たちの言葉に応じることから始めればよい、それでも自分の言葉が思い浮かばなければ、その言葉をなぞってみればよいと思えました。この場を借りてお礼申し上げます。この機にあらためて、論理の通った書き言葉ではなく、会話として書くことの面白さも再確認しました。いただいた宿題もあり、他にも書きたいと思っていたこともあります。またどこかでお読みくだされば幸いです。どうもありがとうございました。
参考文献等
長新太『どうぶつたちがはしっていく』子供の未来社、2015年
村上靖彦『交わらないリズム:出会いとすれ違いの現象学』青土社、2021年
アンリ・ベルクソン『笑い』林達夫訳、岩波文庫、1976年
推薦図書
『病と障害と、傍らにあった本。』里山社、2020年
高橋康也『ノンセンス大全』晶文社、1977年