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第9回 映画と利他──非言語的コミュニケーション 北村匡平

2021.08.27

山崎太郎さま、木内久美子さま

固有名を介した思考の旅

 今回の山崎さんのエッセイは、アルベール・カミュの『ペスト』の舞台となった町であり、モーツァルトのオペラ『後宮からの逃走』に突如として登場する(下敷きとなった「トレド」という地名から書き換えられた)町でもある「オラン」と、虚構/史実を通して何度も巡り逢う長大な「時間的な旅」のお話で、とても読み応えがありました。
 僕も映画を対象として普段は作品(テクスト)を分析しているのですが、歴史的な観客の声(史実)に触れ、現代を生きる自分との感受性の違いに出くわした時、深く感激することがあります。現在の視点から超越的に眺めるのではなく、歴史の現場に想像的に介入し、その文脈のなかに身を置いて作品を捉え直さなければならない、と強く思わされるのです——たとえば、コロナ禍に作られて視聴される「他者との接触」を描いた映画は、歴史的コンテクストから離れると、その感度はまったく異なるものとなって作品が受容されるように。そうした同時代の「制作者–作品–観客」にしか成立しない緊密さに敏感でありたいと常に思います。
 木内さんは、われわれのエッセイにおける固有名詞の羅列から思考を巡らせたもので、その排他性に留意しつつ、プルーストの『失われた時を求めて』のテクストに密やかに挿入された架空の地名「バルベック」に躓くことが、「他者性」との出逢いにつながる契機となりうると記しています。比較文学がご専門で、日常的に文学や戯曲を研究されている木内さんならではの、言語の意味をめぐる「他者性」のお話で、大変興味深く拝読しました。「固有名詞の特徴は、そのことばを知っている人にしか意味をもたない」という、ある意味で残酷なものでもあるのですが、その一方、固有名を知れば知るほど、それらが「豊かな意味の広がりを与えうる」ということ。学者の多くは、固有名詞が連鎖していき、意味のネットワークを形成する快楽を経験的に知っているのではないでしょうか。
 お二人の今回のエッセイに通底しているのは、「オラン」と「バルベック」という町=固有名を媒介に、歴史を超えた思考の旅をしながら、現実/虚構を行き来して、テクストを生み落とした作家と何度も出逢い直すことだと感じました。そこには言葉を介した強力な意味のシステムがあります。言葉や意味の繋がりやズレから見出される「他者」というのは確かにあります。というより、私たちは言語から逃れることはできません。ですが僕が最近考えていることは、むしろ「言葉から離れてみる」ということです。映像を専門にしていることもあって「非言語的コミュニケーション」と自己/他者、言語とは異なる仕方の利他を考えてみたい、そう思い始めました。きっかけとなったのは、現代の日本映画でもっとも自/他の関係を映像的に問うている濱口竜介監督の作品です。

身体を「聴く」こと

 公開されたばかりの『ドライブ・マイ・カー』がカンヌ国際映画祭で日本映画初となる脚本賞ほか、全4冠に輝いたことで大変話題になりました。この作品が利他を考えるうえで非常に示唆的なのですが、その前に2015年に公開された代表作『ハッピーアワー』に触れておきましょう。僕はこの5時間17分におよぶ映画を渋谷のシアター・イメージフォーラムで観ましたが、ワークショップや小説の朗読会が延々と続くこの作品の「心地良さ」をいまだに忘れることができません。映画に包み込まれ、赦されているような感覚は他のどの作品においても味わったことがないからです。できるなら、ずっとこの世界に浸っていたい、そう思わされる映画でした。
 この作品の序盤に「重心に聞く」という怪しげなワークショップがあり、女性の主人公4人が参加します。彼女たちは身体間に生起する「重心」を探るワークを他者とペアーになってやっていきます。背中をくっつけて座った状態から力を出し合って相手を頼りつつ立ち上がったり、相手との正中線(身体の中央にある縦の線)を合わせたり、「はらわたに聞く」と題して他者のお腹の音に耳を傾けたり、額をくっつけて相手のイメージを受信しようとしたり……とにかく鵜飼という人物が講師の不思議なワークショップなのですが、参加した桜子は人のことを「聴こうとしていること」や、自分のことを「聴こうとされていること」が幸せだと思った、と語ります。看護師のあかりは、自分は普段相手に慎重に触れる仕事だが、自分のことがないがしろになっていることに気づいた、自分のことが相手に伝わっているというところまで普段考えていなかった、と感想を述べます。他人の身体を細やかに聴くことは同時に、自分自身の身体にも耳を傾けることにつながるのです。普段これほど他人に触れて、その人のことを言葉以外の感覚で「聴く」ことはほとんどなく、翻って自分の身体がこれほど他人に真剣に「聴かれる」ことはない。それが何より幸せだったと参加者たちは感じたわけです。
 個人的に『ハッピーアワー』は、このように参加者たちの他者=自己に対する感性が刺激されて開かれてゆく姿を見ることが何より観客にとっての「幸福な時間」(ハッピーアワー)となっていく作品です。それは映画に登場する人物同士のコミュニケーションであると同時に、映画と観客の間にも起こる独特なコミュニケーションです。私たち観客はいつの間にか、映画の登場人物の身体の微細な動き、呼吸、手や指先の動き、声の肌理、目線、仕草などに意識を集中させ、これ以上ないほど繊細にテクストを味わうようになる、そういう不思議な体験をした映画でした。観終わった時には、全身の毛穴が開いた状態で映画と対話しているような感覚に陥ると同時に、全身が揉みほぐされたような「心地良さ」を感じました。それ以来、濱口映画は僕にとっての「マッサージ映画」として位置付けられています。この感覚をさらに突き詰めたのが、先にも触れた新作『ドライブ・マイ・カー』です。

非言語的コミュニケーション

 『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の同名の短編小説を原作にしていますが、実際にはそこに「シェエラザード」と「木野」という短編も組み合わされており、それを濱口的主題としてアダプテーションして、完全なる「濱口ワールド」に仕立て上げられています。映画批評ではないので細かい点は省きますが、舞台俳優であり演出家でもある主人公の家福が「多言語演劇」をやっている設定は、原作にはないオリジナルのアイデアで、これがとても重要なモチーフになっています。舞台では韓国、台湾、フィリピンなどの俳優がそれぞれの国の言語で対話します。また後半になって家福が演出することになるチェーホフ『ワーニャ伯父さん』のソーニャは韓国語を母語とする聾者であり、韓国手話で会話します。すなわち「多言語」と「手話」という原作にない設定によって、相手の言葉の「意味」がわからないコミュニケーションになっている本作は、原作からかけ離れて、自己/他者、身体、コミュニケーションを問い続けてきた濱口的主題へと書き換えられました。
 「濱口ワールド」とは、いわば密室空間や閉鎖空間が用意され、そこに机と椅子と人間が居れば映画になってしまうミニマルな世界です。この空間が本作では狭い車内になっています。実は濱口映画には「三角関係」が非常に多いのですが、この作品も家福と妻の音、彼女と肉体関係がある役者の高槻の三人が物語の中心にいます。三人いると必ず「嫉妬」が描かれ、たいていは人物同士の関係性が交錯し合ってメロドラマになるのですが、濱口映画は「嫉妬」は描かれてもメロドラマには決してなりません。『ドライブ・マイ・カー』の公開に先立ち、2021年8月16日に六本木の文喫で濱口監督と伊藤亜紗さんと僕でトークセッションをやったのですが、そこで伊藤さんは「ずっと並行関係が続くような感じがした」と適切な言葉で表現しておられました。この物語は家福が、亡くなった妻のカセットテープの「声」を相手に台詞の練習を車内で繰り返し、あるいは彼の運転手となったみさきとの会話が車の中で延々と続いていきます。車の空間は向かい合って対話をすることは難しく、したがって視線による切り返しはほとんど為されません。「目」(視覚)ではなく「声」(聴覚)によるコミュニケーション、つまり「目」からの情報以上に「並行」に座席に並んだ人物の「耳」を中心とした対話が、寄り添うような並行関係のもとで進行していくわけです。
 通常と異なるコミュニケーションの最たるものは「多言語」や「手話」(しかも韓国手話)による対話です。相手の言葉の「意味」がわからないので、受け取る人(観客も含めた)は話し手の微細な表情や身振り手振り、声の抑揚やリズムにかなり集中することになり、普段の対話のモードとはまったく違う神経を使います。そして不思議なことに言語の「意味」よりも、はるかに豊かな(言葉にしがたい)情報が身体から伝わってくるのです。公園で稽古する奇跡のようなシーンがあるのですが、もうここでのソーニャの手話とエレーナの北京語のダイアローグはメッセージの「意味」を超えて言葉が「音楽」のように響いてきます(ちょうどチェーホフの戯曲の台詞がエレーナの「なんだかピアノでも弾きたくなった」になっています)。というより、観る者が多様な「意味」を見出していくといったほうがふさわしいでしょう。まさにこれこそ役者同士、俳優と観客の「多言語」による、「多声的/重層的」(ポリフォニック)なコミュニケーションなのです。
 映画『ドライブ・マイ・カー』を自/他の関係から強いてまとめるならば、固い殻を被った頑なな男の所有物である車における、妻の音(死者の声)との親密な密閉空間に、他者(みさき)が侵入し、最初はそれを必死で拒絶するも、それを受け入れていく物語だといえるかもしれません。いや、もっと正確にいえば、自分と身体化した車=身体の運転を他者に「預ける」物語であり、それは他者を「受け入れる」というより、車の運転を「手放す」=自分を他者に「預ける=委ねる」という感覚に近い。すなわち、ここで『ハッピーアワー』との共通点が浮かび上がってくるのですが、主人公が他者(死者も含む)の「声」に自分の身体を委ねながら耳を傾ける映画であるといえます。そしてより重要なのは、聴覚や触覚を媒介に他者/死者と出逢い直すと同時に、自分自身に耳を傾けるようになっていく点です。つまり、自分の「車としての身体」の乗り心地が変わっていく、「自らの身体を聴く」物語でもあり、そのようにして少しずつ「生きる」ことを肯定していく映画だと僕は感じました。濱口映画を観終わった時に独特な多幸感を味わえるのは、言葉の「意味」やただの視聴覚的な「情報」をはるかに超える「過剰さ」を読み取ろうとする、私たちの感性が大きく開かれてゆくからです。その「心地良さ」が類を見ないという意味において、優れて「マッサージ映画」なのだと痛感しました。

映画と利他

 濱口監督が映画を撮り始めるまでのプロセスは非常に独特です。『ハッピーアワー』は「即興演技ワークショップ in Kobe」の受講生と終了後に映画を制作することを前提としたものとして始まりました。このWSは演技のレッスンではなく「聞く」ことを重視したものだったといいます。「聞く」ことの定義を拡張し、「身体全体の感度を上げるためのもの」だと濱口監督自身が振り返っています(『カメラの前で演じること——映画「ハッピーアワー」テキスト集成』より)。映画を作るにあたって、濱口監督は短編ドキュメンタリー『ジャン・ルノワールの演技指導』に収められている「イタリア式本読み」を模範としながら、とにかく撮影に入る前に繰り返し本読みをしてニュアンスを抜くことを徹底し、感情を抜いて発声することをやりました(その後、この濱口流の「ホン読み」は慣例となっています)。興味深いことに、出来る限りニュアンスを抜いて「ホン読み」をするとプロの役者は「ニュアンスを抜く」演技をしてしまう一方、『ハッピーアワー』など演技経験のないキャストは台詞をただ覚える作業を通してニュアンスを抜けたようです。彼は、この違いに関して、プロの役者は台詞を「意味」として捉えていたのではないか、といっています(『映画の言葉を聞く——早稲田大学「マスターズ・オブ・シネマ」講義録』所収)。本番でこの制約を一気に解放するというのが濱口流のやり方なのですが、そうすることで「起こることが違う」と発言しています。このプロセスも非常に面白いのですが、リアルな演技を志向することとは違う「演技とカメラの調和」を重視する濱口演出の特色は、撮影にいたる前の脚本作りにあると僕は思います。
 『ハッピーアワー』では基本的に演技経験のない受講生たち(3分の2はまったくの素人)が出演するため、脚本段階で聞き取りをし、こういうことはしたくない、違和感がある、というものは排除していきました。そうすると次第に演者の日常的な身体性へと寄っていったといいます。濱口監督の表現を使うと、演者の「言えなさ」=「恥」をカメラは捉えてしまう、だから「恥」を減ずるように脚本を改稿していったのです(これは伊藤亜紗さんが『記憶する体』で述べている自分の「身体のコントロールできなさ」とも通ずる話で、身体=他者という前提で個別的なローカル・ルールを記述しようとする研究のあり方にかなり接近する議論なのではないでしょうか)——かつて俳優業を少しばかりやったことがある僕としても「テキストを身体化できない」という「恥」の感覚は非常によくわかります。このようなアプローチはシナリオにおける特定の俳優への「当て書き」とも違う、きわめて「利他的な脚本作り」です。作家が書きたいキャラクターで好きに台詞を決めて俳優に演じさせるというのとはまったく逆の発想で、そもそも人間には「言えなさ」があるという前提で、個別具体的な人間へとテクストが変容していくような度重なる改稿が為されました。表現を変えるとこの手法は、演者がカメラの前でもっとも自然に存在できる方法の模索でしょう。『ハッピーアワー』では、登場人物が「役を演じる」のとはまた違う、この上なく生き生きとした魅力的な輝きを放っています。撮影に入る前のこの利他的な行為が、本作を比類ない映画に仕立て上げた決定的な要因だったと断言できます。

 話を身体同士のコミュニケーション、あるいは映画と観客のコミュニケーションに戻しましょう。私たちの日常のコミュニケーションにおける言語の「意味」は、それ自体であらかじめ定まっているのではなく、日常のそれぞれの場面=文脈があって、その場でゲームのようにやり取りをする中で言語の「意味」が確定されます(ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」)。たとえば「もう大丈夫です」という言葉は、洋服屋における服の会計で(2点購入すると割引になりますが)「いかがですか?」と勧められたときには「結構です」という意味と了解され、病院で2回目の通院をして(具合は)「いかがですか?」と聞かれたときには「治りました」という意味が成り立ちます。こうしたコミュニケーションは日常茶飯事なわけですが、逆にいうと簡単に意図が伝わるため、かなり「雑」になってはいないでしょうか。洋服屋や病院のスタッフも含めて、このような定型化した言葉だけが交換されるシチュエーションが日常にはいたるところにあります。
 濱口映画には、ここでいう日常の当たり前にあったコミュニケーションの「場面」や「文脈」を組み替えていくところがあり、『ドライブ・マイ・カー』は『ハッピーアワー』のこうした点を突き詰めて思考しているように思います。本作では「文脈」を成り立たせる規則が「多言語」ということで攪乱され、言語の「意味」ではないものに意識をズラして(身体の動きだとか、微細な表情だとかに)意味を見出すほかない。だから全編を通して観て終盤のソーニャとワーニャの舞台になると、登場人物の指先、手の動き、接触、身体がたてる音など、家福はあらゆる情報を取りこぼさずに受け取っているように受け止められ、その聴き取る力は映画の序盤とはまるで違っているように変化しています。そして、それは同時に映画を観ている私たち自身にもいえることで、いうなれば、私たちの「聴き取る」モードもまた映像を媒介にして再構築され、アップデートされていくのです。
 濱口映画の観客は、感性が刺激されて他者を受け取る受容のモードが更新されていきます。それによって「言語=意味」を超え、身体が饒舌に喋り出すということを経験します。あるいは身体だけではなく、日常における「意味」が揺さぶられることで、カメラの中で起こっているすべての動きに敏感になるように促されます。言い換えれば、濱口映画ではストーリーをただ追うことよりも、目(カメラ)の前で何が生起しているのか、人物の顔を凝視し、声(意味というよりトーン)を聴き、身体に触れるように映画に接近することになります。繰り返しますが、これは登場人物のみならず、観客にも次第に開かれていき、人物同士の他者を「聴くモード」はいつしか観客の経験に乗り移っていく。人の微細な動きとか発声のニュアンスがこんなにも面白いものだったのかとカメラを媒介にして感じ直せるといってもいいでしょう。そして自/他のコミュニケーションが常に主題としてある濱口映画では、その境界が消失するような瞬間——他者に触れつつ自分にも触れているような一瞬——が訪れ、それが「いま、生起しているもの」としてカメラに捉えられます。濱口映画は、われわれの感性を開くテクストであり、私たちが自身の(濱口映画『親密さ』の表現を借りれば)「小ささ」や「弱さ」のようなものを再発見する映画でもあるのです。
 このように濱口竜介監督の映画には、「非言語」による自/他の関係性の独自のあり方、そして利他を思考する糸口がふんだんに盛り込まれていると思っています。これはおそらくこのエッセイや研究会でも頻繁に登場する「翻訳不可能性」の話にもつながっているでしょう。映画とは言葉にはしがたいものを表現できる媒体です。そこにいかなる「利他」が見出されるのか、いずれ「映画と利他」というテーマで本を書きたいと思っています。