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利他とは何か――利と他の現象学 若松 英輔

2021.04.13

はじめに

 「利他」とは、文字通り「他」を「利する」ことです。特段、複雑な言葉ではないように見えますが、「他」とは、あるいは「利する」とは何であるかを考えると、途端に定義するのがむずかしくなってきます。
また、現代社会では「利他」とは、「利己」の対義語である、とされることも少なくありません。事実、西洋では今でも「利他主義」は「利己主義」の対概念とされています。
 西洋において「利他主義:altruisme(仏)」という術語が思想的に定着したのは、フランスの哲学者オーギュスト・コント(1798~1857)によるとされています。この言葉は「愛他主義」と訳されることもありました。最近では「愛他主義」という表現を目にすることは少なくなりましたが、「愛他」という訳語の方が、コントのいう“altruism”の原意をつかみやすいかもしれません。
 ここでは日本語でいう「利他」との差異を明らかにするために、コントのいう“altruism”は「愛他」あるいは「愛他主義」と表記することにします。
 コントの代表的著作の一つ『実証精神論』(霧生和夫訳)1 によると、私たちは「愛他主義」によって、個々の人間にとどまらず、「人類」という射程を得ることできるようになる。そして、「あらゆる時と場所に正しく拡大された社会的連帯という深い感情」に無意識のうちに親しむようになる。さらに他者との「共感」のうちに自己の「幸福」を感じるようになる、というのです。コントにとって「愛他主義」は、大きく区分すると、次のようなものでした。

1:人間を「個」から共同体、さらには人類へと開くはたらき
2:他者への共感を促すはたらき
3:他者との共存に幸福を見出すはたらき

 ここで「愛他主義」を三つの「はたらき」であると記したのは、コントがそれをある種の「道徳」であると考えていたことによります。コントにとって「道徳」は、考えられるものであるよりも実践されるべきものでした。
 コントは、人間の精神が、神学的時代、形而上学的時代、そして実証的時代へと進歩していくと考えました。コントのいう「神学的」は、宗教的と言い換えてもよいものです。宗教は、ある種のアニミズムである「拝物教」、多神教、一神教を「進化」する、とコントはいいます。
 同様のことは形而上学にもいえます。彼にとっての「形而上学」とは、宗教化した哲学であり、哲学として未成熟なものでした。しかし「実証的:positif」精神が発揮されることによって人間理性は真の意味で科学と調和し、世界を再構築していけるとコントは考えました。彼にとって「実証主義」とは、それまでの形而上学を超えたものであるだけでなく、神学、すなわち宗教的叡知を超えたものでもありました。そして、コントにおける「愛他主義」は最終段階である「実証的道徳」として開花するべきものだったのです。
 しかし、コントの「実証主義」の本質を考えるとき、現代でいう哲学とは大きく領域を異にするものであることを認識しておく必要があります。「社会学」という言葉もコントに由来します。コントの「実証主義」は、彼のいう「社会学」のなかに位置付けられるものでした。そしてコントにとって「社会学」は、もっとも進化した科学でした。。科学は数学に始まり、天文学、物理学、化学、生物学と進化した。コントにとって「社会学」は、六つ目の科学だったのです。
 さらに、コントにおける「愛他主義」とは何かを考えるとき、フランス語の“isme”、あるいは英語の"ism“が、かつて有していた語感にも注意が必要です。
"ism“という言葉は、今日では特定の思想を表現する言葉になっていますが、少なくとも二十世紀の始めまでは、必ずしもそうではありませんでした。それは、仏教がBuddhism、道教がTaoismと呼ばれていることからも明らかです。そして、1906年に岡倉天心(1863~1913)が『茶の本』――この本を天心は英語で書いた――では「茶道」はTeaismと記されていて、天心はそれを「美の宗教」である、とも書き添えています。 "ism“は、日本語の「道」にきわめて近しい語感を有していました。それは、単に思考の対象ではなく、実践してみなくては分からない何ものかだったのです。
 同質の認識はコントにもありました。そのことは、コントの思想に大きく影響を受けつつ、自身の哲学を構築していったアラン(1868~1951)の言葉を見るとより明らかになります。 アランは、自分にとって重要な言葉を定義する習慣をもっていました。その記録が没後『定義集』として刊行されました。そこでアランは「愛他主義」を次のように定義しています。

これはエゴイズムの反対である。これは他の人たち(autrui=「他者」)のことを思う性格、彼らが何を思っているか、何を感じているか、何を希望しているか、何を欲しているか、何を欲するはずであるか、何を我慢することができないか、などを考える性格である。これは他人の位置に自分を置くことである。したがって、彼らが表明する、あるいは彼らが表明すると想定される讃嘆や非難によって強く影響される。2

 「愛他」とは他者の身になって感じ、何を望み、あるいは望んでいないかを考えることである、というのです。それは自分という視座を離れ、他者の視座に立って現実を眺めようとすることでもある。
 ここでアランが、視野の拡張というよりも、視座の転換に言及しているのは注目してよいと思います。自分の立ち位置を変えないで、多角的に眺めるのではなく、ひとたび自らの立場を離れて、他者、あるいは世界と向き合い直してみること、それが「愛他主義」の原点であると指摘します。さらに先の言葉に続けてアランは、次のようにも書いています。

この種の友情なしには、世界には社会というものはまったく存在しない。この友情は、他の人たちのことを考えるが、彼らの感情を考慮しない、組織しようとする意志とはまったく異なる。国王は分別があっても、それでも愛他心をもたないことがある。また時としては、世論がたしかに有益な改革に反対であると知った国王は、愛他心から、理性的な態度を背くことがある。3

 「愛他」は、ある種の「友情」である、とアランはいいます。ただ、ここでの「友情」は、近くにいる友との交友ではなく、「友愛」に近いものであることが分かります。さらにアランは、為政者と「愛他」にふれ、理性的な王であっても「愛他」の心を持たない者もいる。だが、そのいっぽうで「愛他」の心ゆえに、理性的な判断とは異なる決断をすることもある、というのです。
 コントの哲学を理解する上で「進化」あるいは「進歩」という考えを無視することはできません。しかし、コントにおける「進歩」とは、単に利便性が高まることでもなければ、利己主義を助長するものでもなかったことはこれまで論じてきたことからも明らかです。アランはコントをめぐる論考で「進歩はいつも秩序の発展にほかならない」という言葉を引いています。コントにとって真に「進歩」と呼べるものは、ある「秩序」と深くつながっているものでなくてはならなかった、というのです。  今日から振り返ってみると、長い西洋哲学の歴史の中で、19世紀に至るまで「愛他主義」をめぐる哲学が、本格的に展開されなかった事実は注目に値します。東洋における「利他」は別な発展を遂げました。「利他」というの起源は、コントの出現から裕に千年をさかのぼります。少なくとも、日本における「利他」という言葉の誕生は、九世紀に見ることができるのです。
 さらに日本における「利他」は「利己」を対概念にしません。むしろ、自他の差異を越えたところにその実現を求めようとします。
この論考では、「利他」とは何か。あるいは利他を実現する原初的な「ちから」はどこにあるのかを探りながら、「利他」の哲学の一端をかいま見てみたいと思います。
 また、副題に「現象学」という言葉を用いた理由を書いておいておいた方がよいかもしれません。それは、「利他」とは何かを考えていたとき、現象学の父エドモンド・フッサール(1859~1938)が書いた『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』にある一文に出会ったからでした。彼は「単なる事実学は、単なる事実人をしかつくらない」と述べた後、次のように述べています。

この事実学はわれわれの生存の危機にさいして、われわれに何も語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な転回にゆだねられている人間にとって焦眉の問題を原理的に排除している。その問題というのは、この人間の生存全体に意味があるか、それともないのかという問いである。4

 この言葉が書かれたのは、1935年から翌36年だったと訳者は伝えています。書名からもうかがうことができるように、ナチス・ドイツによる全体主義が猛威をふるっていた時期に執筆されたのでした。
 今、私たちは、フッサールが経験したのとは別種の危機を生きています。コロナ危機を経験した人類にとって「利他」とは何を考えることは、文字通りの意味で「焦眉」の、あるいは喫緊の課題なのではないでしょうか。
 そして、今、直面している危機が、コントの考えていたように「人間」の危機であるとともに「人類」の危機であることも、「利他」とは何かを考える私たちは、けっして忘れてはならないのだと思います。
1:オーギュスト・コント『実証精神論』(霧生和夫訳),『世界の名著36』中央公論社,1970, p.206
2:アラン『定義集』(神谷幹夫訳), 岩波文庫, 2000年, p.23-24
3:同上, p.24
4:エドモンド・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元訳),中央公論社, 1990, p.17