3月末、沖縄出張のついでに伊江島を訪れた。那覇から車で北上すること約2時間、そこからさらにフェリーで30分。電照菊とタバコの畑が一面に広がる、今はのどかな島だ。
知人に教えられてこの島を訪れたのにはわけがある。島東端の「ヌチドゥタカラの家」に行くためだ。「ヌチドゥタカラ」とは「命こそ宝」という意味。太平洋戦争時、飛行場のあった伊江島は、民間人を含む4000人以上が亡くなるという苛烈な戦いの場となった。さらに戦後は島の3分の2が軍用地となり、農地を接収された島民たちは生活の拠り所を失った。
その反基地運動の先頭にたったのが、「沖縄のガンジー」と言われる阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)である。阿波根が戦いのために用いたのはカメラだった。米軍が何につけても証拠を出せというので、記録を撮り続けていたのである。島で唯一のカメラであり、当時はフィルムを焼くために那覇まで行く必要があった。
ヌチドゥタカラの家は、阿波根が自宅の敷地内に開設した私設の資料館である。天狗のような恐ろしい形相の巨大な頭部に睨まれながら門を入り、パパイヤの生える庭と母屋を抜け、中庭のさらに奥が展示室だ。薄暗い室内。戸を開け、パネルの下に埋もれていた電灯スイッチを押すと、ものすごい物量が飛び込んでくる。
小学校の教室ほどの空間を床から天井まで埋め尽くすのは、「乞食行進」(1955-6)など島民の運動の様子を阿波根自身が撮影した写真のほか、米軍が訓練中に落とした薬莢やパラシュート、人々の衣服や生活の品、檄文が書かれた横断幕など、「展示品」と呼ぶにはあまりにも生々しいモノたちである。空間そのものが怒っているかのようなその場所で、しばらく身動きがとれなくなった。
どうにかそこを出て母屋のほうに向かうと、車椅子の女性に招き入れられた。生前、阿波根の活動を支え続けた謝花悦子(じゃはな・えつこ)さんである。八十歳を超える年齢だが、声は少女のように透き通っている。
その声で謝花さんはまっすぐ語り始める。幼い頃にかかった病気で間違った治療をされ、歩けない体になったこと。父親が掘ってくれた壕で家族は生き延びたが、父親は米兵が上陸したその日に戦死したこと。コロナのこと。ウクライナのこと。そしてもちろん阿波根のこと。体調を気づかってこちらが切り上げようとしても、その話は止まるところを知らない。
それどころか、話しながら謝花さんの手は動いていて、つぎつぎとお土産を出してはこちらに差し出してくれるのである。最初は、島の特産品である黒糖ピーナッツ2パック。子供向けの阿波根の伝記本。ノートをまとめた資料。ついに謝花さんのインタビューが掲載されているという雑誌(『世界』岩波書店、2021年2月号)が出てきたときには、反射的にこう言ってしまった。「ちゃんとお代は払います。おいくらですか。」
すると謝花さんは猛然とこう答えたのである。
「わたしは、そんなことのためにやってるんじゃない。」
そして謝花さんはすぐに学校に通っていたときの話に戻っていった。しかし、その一言にはすごみがあった。そして、自分がたいへん失礼なことをしてしまったことに気がついた。
書店で売られているものとはいえ、謝花さんが好意でくださったものに対して、私は対価を払おうとした。ものをもらうことは、それに対してお返しをしなければならないという負債を抱えることでもある。金銭は、それをチャラにしてくれる。私は自分が楽になりたくて、支払いを申し出たのだった。
しかし、謝花さんがしてくれたことは、そもそも簡単にお返しができるようなものではない。自身の苦しみを、ヤマトから来た人間に対して語ること。伊江島での戦いについて、私自身がこれまでほぼ無知であったこと。簡単に受け取らせてたまるか、という思いがあのときの謝花さんにはあったのではないかと思う。
ある行為は受け取られることによって利他になる。しかし、受け取ることの困難を与えるような利他もあるのではないかと思う。それは端的にいって「傷」だ。私はどうやったら謝花さんの行為を受け取ることができるのか。謝花さんの話をたとえば大学の授業で学生に話すことによってだろうか。あるいは、障害者と戦争について研究することによってだろうか。わからない。傷はまだしばらく癒えない。