春に引っ越した。道路沿いの戸建てなのだが、住み始めて気づいたことがある。うちの前が、人のたまり場になるのである。よくいるのは学校がえりの小学生たちだ。ランドセルをほっぽり出して、道路に何か書いたりしている。道路どころか玄関前ポーチにあがって遊んでいることもある。そんなときは自分の家なのに「ごめんね」と恐縮しながら家に入ることになる。
なぜうちの前なのか?理由はおそらく、我が家の立地にある。我が家が建っているのは、いわゆる「袋小路」の入り口の部分だ。家の正面は公道に面しているけれど、右手は私道。私道はすぐに行き止まりになり、その両側とどん詰まりに似たような家が七軒建っている。住んでいる我々からすれば、「私道」というより「中庭」という感じだ。
道路が行き止まりになっているだけで、そこが人のたまり場になる。確かに車が猛スピードで入ってくることはないから安全だし、通行人の邪魔にもならない。一方で、車や人がまったく入って来ないわけでもない。完全な閉鎖空間は不安を掻き立てることがあるが、袋小路であれば、外とつながってもいる。都市の移動の流れがスローダウンしてとどまり、やがて再び速さを回復して出て行くことが約束されている場所。人間の内臓にたとえるなら、血液の成分をリフレッシュさせる肺胞みたいだな、と思う。
不思議なのは、袋小路にたまる人は基本的に複数だということである。公園や広場はひとりで過ごしている人も多いが、袋小路ではそうはいかない。立ち話をする、キャッチボールをする、地面に絵を書く…。ここでは常に、何らかの情報やものの交換が行われている。袋小路は休息ではなく社交の場である。
しかしだからこそ、不動産の世界では袋小路は評判が悪い。その社交に加わらない住民にとっては、公共の場所が不当に占有されたと感じるようだ。ママさんたちのおしゃべりがうるさい、子供が騒いで寝られない…。ネットを見ると、さまざまなネガティブな書き込みが目に付く。そもそも「袋小路」に良い意味はない。「審議は袋小路に入ってしまった」と言えば、それは解決の緒が見失われた状態を指す。
とどまることが社交をうむが、一方でそれが領土争いに火をつける。「コモンズの悲劇」に陥ることなく、居心地の良いこの場所を、それぞれの仕方でいかにともに利用するか。利他がたちあがるのは、この「流れる」と「とどまる」のあいだにおいてである。規約などを制定して政治的に解決することも可能だが、身体の研究者としては、もう少し違う解決策をさぐりたくなる。
たとえば三宮のさんきたアモーレ広場では、駅前であるにもかかわらず、人々が堂々と寝そべっている。三宮駅といえば神戸の主要なターミナル駅だが、改札を出てほんの数歩で、海水浴場のような光景が広がっているのである。
ここはもともとパイ山と呼ばれ、定番の待ち合わせ場所として愛されていた。それが駅一帯の再開発にともなって2021年にリニューアル。もともとあったお碗を伏せたような構造物を反復するような形で、リニューアルされた広場にもゆるやかな小山がある。人々が寝そべっているのはその斜面の上だ。
設計した建築士・津川恵理さんにお話をうかがう機会があった。広場をつくるにあたって彼女がこころがけたのは、「アフォーダンスの逆をやること」。いわゆる排除アートのように環境によって人々の振る舞いを管理するようなやり方ではなく、みんながパフォーマーであるかのように体の可能性が解放されたらいいな、と。
たとえば広場には、小山のほかにスロープ状の長いベンチが設置されている。高さが違うので、そこに座ると、いる人みんなの姿勢におのずとバリエーションが生まれることになる。高いところに座る人の足はぶらぶらしているし、低いところに座る人はヤンキー座りのような格好になる。顔を向ける方向もばらばらだし、シーソーに乗るようにまたがっている人もいる。「座る」には実におどろくほどのバリエーションがある。
すべての人の姿勢が誰とも似ていないことが、あらゆる人に居場所を与えているように見える。その中にはホームレスらしき方もいる。彼はまるで「たまる」の上級者であるかのように小山のてっぺんに寝転んで船を漕いでいたのだが、通常なら除け者にされがちな公共空間でのそのふるまいが、ここではむしろ、フォロワーを生み出していた。すぐとなりで若い男性が、同じように寝転んで昼寝をしているのである。ばらばら・さまざまにすることによって、ともにいることを可能にする仕組み。駅前にひろがる海水浴のような光景は、袋小路問題にひとつのヒントを与えてくれる。