Report

一員であるということ 伊藤亜紗

2023.07.31
 10月末にはじめて八丈島をおとずれた。飛行機で羽田からわずか50分。島のくびれ部分に位置する空港に降り立つと、その日は文字通りバケツをひっくり返したような大雨だった。海にも山にも行けず、島の人に案内されて八丈島歴史民俗資料館に向かうことになった。
 八丈島は歴史的に流人の島として知られている。季節によっては島を直撃する黒潮の流れは、最速で毎秒2メートルと言われている。これが天然の壁となり、一度流れ着いたら本土に帰ることは難しくなる。
 流人と聞くと極悪非道の悪者で、さぞ島でも乱暴狼藉を働いたのではないか、島人もさぞ苦労したことだろう、と思われるかもしれない。しかし、八丈島ではそうではない。そのことは墓を見ればわかる。島の人と流人を区別せず、同じ敷地に埋葬されているのだ。「他者を受け入れる八丈島のオープンな気質は、いまでも受け継がれています。」移住者たちがそう教えてくれた。
 資料館の展示も、流人の島であることがむしろ八丈のアイデンティティになっていることをよく示している。展示空間のおよそ三分の一が、流人たちの紹介に当てられているのである。
 中でも有名なのは「流人の祖」と称される宇喜多秀家である。豊臣秀吉に重用され、朝鮮出兵では大将、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将として戦った。関ヶ原に敗れてからは薩摩に逃亡したが、家康のもとに身柄を引き渡され、1606年に八丈島に配流となった。
 写真は、民族資料館の秀家を紹介するコーナーである。それによれば、流罪といっても秀家は一人で流れてきたわけではなく、親子三人と家来、乳母、従者、医師など総勢一三人で島にやってくるという厚遇だったようだ。1616年には前田家のはからいで大名に復帰する話もあったようだが、秀家は八丈にとどまることを選ぶ。そして1655年に亡くなるまで、秀家は結局約50年をこの地で暮らすことになる。島の海を望む場所には、豪姫とならぶ立派なが建っている。
 なぜ八丈島の人は、流人たちを差別することなく、積極的に受け入れてきたのか?理由のひとつは、流人たち新しい技術や文化の運び手であった、ということだ。たとえば、食糧の乏しい島にさつまいもの株を持ち込んだのも流人だし、それを栽培する方法やそこから焼酎を作る技術も、流人たちによって持ち込まれている。島の人にとって、流人は新しい技術と文化を島持ち込んでくれる存在であったのだ。
 それを象徴するのが、地域に今でも伝わる樫立踊りである。奇妙といえば奇妙な踊りで、京都や広島など各地の踊りのメドレー形式になっているのだ。各地からやってきた流人たちの故郷の踊りが、付け加えられていったものと思われる。
 ただしポイントは、もとの踊りとは違ってかなり「八丈ナイズ」されていることだ。歌には楽譜も伴奏もない。踊りも自分がよいと思った人の踊りを真似る形式なので、こうしたアレンジが容易に起こってしまう。八丈の人が、「利他って結局「一員である」ってことじゃないですか?」と言っていた。型を保守するよりも属人的であることを優先する伝承の形態に八丈らしさを見た気がした。
 二つ目の理由は、そもそも「罪」の意味が昔と今では違っていたということだ。資料館のガイドさんが、仇討ちの際に相手の息子までをも殺してしまいをして島流しになった人物のパネルの前で教えてくれた。「昔の人の感覚では、仇討ちをした人は、仇討ちの相手に対しては悪いことをしたかもしれないが、それ以外の人には悪いことをしていない」。つまり、島の人たちは、流人を絶対的な悪人とは思っておらず、あくまでその行為の相手との関係で罪を犯したと考えていた、というのである。
 ハワード・ゼアは『修復的司法とは何か――応報から関係修復へ』のなかで、現代において犯罪は「法に対する違反」と捉えられていることを批判的に指摘している。つまり、現代においては、どのような法に違反したかが司法手続きの焦点になり、それに従って量刑が決められ、実際に被害者がこうむった苦痛がどのようなものであるか、被害者と加害者の関係を修復するために何が必要か、といったことは、ほとんど顧みられないのである。(ゼアの著作はヨーロッパの事例をもとにしているが、日本の事例を理解する補助線になる)。
 別の言い方をすれば、現代において加害者に求められているのは「法に対する説明責任accountability」であって、「被害者への応答責任responsibility」ではない、ということだ。しかし、法に対して責任を果たすために課される罰が、加害者と被害者の人生を必ずしも良いものにしないことをゼアは指摘する。必要なのは、苦痛を受けた被害者と加害者の関係を修復するような司法なあり方ではないか、と。
 かつての八丈の人の罪に対する考え方が、ぴったりゼアの修復的司法にあてはまるとは思わない。しかし、一員である、ということは、この「responsibilityを引き受けること」と密接に関係しているように思われる。それはセンターの研究会でもしばしば論じてきた「バンドのような状態」かもしれない。各自が各自の持ち場で役割を発揮しながら、音楽が生まれていること。雨があがった翌日、地衣類が絨毯のように広がる森を歩きながら、そんなことを考えた。