2020年に公開された『ジョーンの秘密』という映画がある。穏やかな余生を過ごしていた老女が、ある日突然イギリス保安局に逮捕される。第二次世界大戦中にイギリスで行われた核兵器開発の資料をソ連に渡したとしてスパイ容疑がかけられたのだ。何十年も前の出来事に関する取調べに動揺する老女の様子と、青春時代の回想が並行しながら映画が進行し、彼女の過去の秘密が明らかになってゆく。ジョーンは本当にスパイだったのか、そうだとすればなぜソ連に核兵器の秘密を売ったのか。第二次世界大戦末期から冷戦初期にかけての緊迫した時代を背景にしたミステリーになっており、名優たちの緊張感あるやりとりに惹き込まれてつい見入ってしまうが、驚くべきことに、この映画は実話に着想を得て構想されたという。
大学で物理学を学んでいた女子学生のジョーンは、ロシア出身の共産主義者の青年レオと恋に落ちる。優秀なジョーンは研究所に助手として採用され、イギリスの核兵器開発に携わるようになる。レオは彼女の恋心に付け入り、折に触れてジョーンに接触しては核兵器の資料を手に入れてくるよう要求する。一方研究所では、男性科学者たちは都合の良い言い訳をしながら兵器開発に邁進する。若い女性であるジョーンの意見はことあるごとに無視され、彼女は不満を募らせていく。老女になったジョーンは何十年も前の自分の罪を認め、ソ連に核開発の資料を渡したのは世界の平和のためだったと主張する。ソ連が核兵器を手にすれば、軍事上の抑止力が働き、今後核兵器が使用されることはなくなる、というのが彼女の言い分である。
だがジョーンがスパイ行為を働いた理由は、必ずしも世界平和という大義名分や恋人に騙されたという理由ではないことが、物語の終盤で明らかになる。機密情報漏洩の疑いで収監された教授を前に、ジョーンは自分がソ連に資料を渡した犯人であることを白状する。なぜそんなことをしたのかと問われると、彼女は涙を流して「ヒロシマ」と答える。
ジョーンのスパイ行為の原因は怒りである。彼女を行動へと駆り立てたのは、核兵器を実際に使用するという残虐な行為を知ったときの反射的な怒りだった。映画では、優秀だが女性であるがゆえに報われない科学者であり、恋する若い女性としてジョーンは描かれている。だが女性や学者、イギリス人といった立場を超え、非道な出来事に憤るひとりの人間として行動した、というのがまさに「ジョーンの秘密」の種明かしである。
意図しているのかそうではないのかは不明瞭だが、この映画が提示しているのは、「〜国人」としての利害を超えた普遍的な怒りである。普遍的な怒りは、正義感とは少し違う。正義感は「〜すべき」という倫理的な判断が根拠になっているが、普遍的な怒りはダイレクトな感情の発露であり、行動の原動力となる。
普遍的な怒りが物語を動かすもう一つの映画が、黒沢清の『スパイの妻』である。神戸で商社を経営する優作は、洋館で西欧風の裕福な暮らしをし、妻を女優に仕立てて映画を撮るのを道楽にしている。だが商用で訪れた満州で関東軍による細菌兵器開発のための生体実験の事実を知った彼は、なんとかして証拠のフィルムをアメリカに持ち出し、日本軍の残虐な実態を世界に暴露することを企てる。
家庭を蔑ろにして危険を冒そうとする夫を責める妻に対し、優作は次のように返す。商人である自分はコスモポリタンであり、国家としての日本や日本人であることはどうでもよい。だが日本軍の残虐な行為を見てしまった以上、その上に成り立つ自分個人や家庭の幸せというのはあり得ない。優作を行動に駆り立てるのもまた、ひとりの人間としての普遍的な怒りである。
ふつう「利他」は、他者に対する思いやりや気遣いといった優しさの感情から発すると考えられがちだ。だが案外、他者への偽りなき共感が現れるのは優しさよりもむしろ怒りであり、他人の不幸に対して怒りを感じている自分は幸せではないと自覚するときに、利己と利他の区別が消滅するのかもしれない。歴史を振り返ってみれば、思いやりではなく、乱暴で粗野な怒りの感情に突き動かされた、いわば「負の利他」を発する人々が世界を軌道修正してきたのではないだろうか。
ところで、ジョーンがスパイ行為を実行に移すきっかけとなったのは、原爆のキノコ雲と苦しむ長崎と広島の人々を撮影したフィルムである。一方『スパイの妻』もまた、事実を「見る」ということが物語の鍵になっている。優作は満州で「見た」ことによって、「見る」前の自分とは別人となったことを自覚し、自分の「見た」ものを記録したフィルムを国外に持ち出すことに固執する。フィルムは人間を普遍的な怒りを起こさせる力を持っている。
もちろん、映像が真実を伝える一方で、プロパガンダにも利用されうることは言うまでもない。だがわれわれはそのようなマスメディアの時代からは、すでに少し先の地点にいるのではないだろうか。われわれは毎日世界中でアップされる大量の動画や映像を目にしている。戦争で破壊された都市、災害に見舞われた地域、理不尽な貧困や差別に苦悩する人々の様子を目にしては、傷つき、少し不幸になっている。ジョーンと優作という行動する二人の主人公のような大胆さは持ち合わせていないが、われわれは日々普遍的な怒りを募らせているはずだ。おそらく、動画に囲まれて育った世代ほど、自分の生活圏とは遠いところにあるマイノリティに対する差別や環境破壊の問題に関心を寄せるのは、このこととは無関係ではないだろう。先の見えない暗い時代に希望があるとすれば、それは普遍的な怒りがもたらす負の利他の可能性なのかもしれない。