前回のエッセイの終わり近くに垂れ下がった糸をたぐり寄せて、さらに楽器について考えている。今回は特定の楽器ではなく、音楽づくりの媒体となるすべてのモノ(注)、そしてそれらが個人的または共同で何を与えるかについてである。
ほとんどの文化圏には楽器が存在している。楽器を持っていない文化では、音楽を奏でるためのものとして身体が使われている(声帯だけでなく、身体の外側——楽器学ではコーポフォンと呼ぶ——も使われている)。西洋音楽が世界中に広まる以前は、楽器はそれを作った場所や人々とほとんど切り離せないものだった。なぜなら、ほとんどの楽器はその土地の気候や生活様式に合わせて、その土地の材料で作られていたからだ。しかし現在の標準的な西洋の音響機器(ピアノ、バイオリン、ギター、サックスなど)では、一つの大陸で制作・販売され、他の大陸で使用される。そして我々は、比較的簡単な調整のみで国や気候を超えて楽器と共に移動できるようになった。
産業革命以前の状況では、楽器は一般に演奏する人によって作られるため、製作者はその音を出すモノを自分自身の労働の成果として実感する。しかし、現代私たちは商品として楽器を手に入れているのがほとんどである。その主な価値は、家庭や様々な(対面やオンライン)コミュニティの日常生活のおける満足感を高めることだ。 私たちが演奏を学ぶとき、最初は楽器につまずき、苦戦し、すべてがしっくりこなくて、ぎこちないと感じながら、身体、とりわけ手が新しい動きのパターンを習得していく。頑張って継続すれば、人間と音楽が一体になる瞬間が訪れる。自分自身を養い、維持するために道具を扱うのと同じように、自然に楽器を持ち、操るようになる。そして、自分の子供を守るように、自然に楽器を守る。一度この融合が起こると、我々は楽器を離せなくなる——何度でも弾きたくなり、弾けない時間が続くと不快になる。さらには、楽器を手放すことすら難しくなる——楽器を身近に置き、昔のように頻繁に弾けると確信し、昔と同じくらい上手に弾けると非現実的な期待を抱く。
私自身の経験では、10代前半から演奏してきた楽器をいまだ手放していない。
私は約半世紀の間に、チェロ、ギター、琵琶、三線、笙、竜的、篠笛を習ってきた。
このうち、自宅(あるいは広いスペースがあるから、研究室の方)に置かなくなってしまったのはチェロだけで、これは単に子供の頃、先生から借りたハーフサイズの楽器で2年間習っただけだったからである。私が演奏してきた楽器のほとんどは日本の「伝統の」ものだが、日本からオーストラリアのニュー・イングランド地方(シドニーから約500km)に楽器と共に移住して10年以上住んだのち、すべての楽器を日本に持ち帰り、いつでも演奏できるようにずっと手元に置いていた。
私はギターと琵琶に最も多くの時間を捧げており、どちらも何種類か持っている。
しかし、どんなことがあっても手放せないのがマルセリーノ・ロペス(Marcelino Lopez)氏によるギターである。なぜなら、私が初めて演奏に没頭した楽器だったからだ。48年前、マドリッドで新しく作られ、母がオーストラリアまで運んでくれた(その当時は747型機のロングコートの棚に気軽に楽器が収納できた)。このギターと共に10代の私の体も成長し、木材が馴染み、私の指が色合いや音色の彩りを引き出す方法に慣れていくにつれて、サウンドがより豊かになっていった。加齢や最近の怪我の影響で指が動かなくなった今でも、ロペス・ギターをケースから取り出し、香りを嗅ぎながら(長い年月をかけて染みついた木の香りも深まっている)、時間があればいつでも弾いている。死ぬまでは手放すことができないし、すでに遺言で近親者に遺贈している。
「楽器」は何のためにあるのだろう。もちろん「楽器」の「楽」は「音の楽」(つまり音による快楽)の「楽」と同じだ。明治時代以降の日本語では、「音楽」はmusicを表す最も一般的な言葉である。しかし、その「音の快楽」、「楽しめる音」は誰のためにあるのだろうか。演奏者は誰のために楽器を演奏するのだろうか。
第一に自分自身のためである。自分自身が楽しめない音楽を演奏するミュージシャンは、豊かな演奏ができない傾向にある。また、自分の出す音に十分な注意を払わないと、音楽は流れやまとまりを失ってしまう。しかし、私たちが一人で演奏するのは、その本質的な楽しみのためだけでなく、自分自身を健康に保つためでもあるのだ。和太鼓のような打楽器や、コントラバスのように立って演奏する大きな楽器は、演奏すること自体がトレーニングになることもある。しかし私が考えているのは、演奏者がフロー状態に達し、心も体も音楽だけに没頭しているときの集中的な演奏による感情的な効果である。このように楽器に没頭することで、その演奏を聴いたり見たりする人が周囲に居ようといまいと、健康/ウェルネスにつながる生理的・心理的効果があることが実証されているのだ。
その恩恵は、認知・身体能力の差、あるいは「障がい」の有無にかかわらず、すべての人間に与えられる。私は、20歳になる息子のクラウディオ・ヨシユキを見ていて、日常生活の中でそれを数え切れないほど見てきた。彼は生まれつき非常に重度の障がいがあり、ほとんど何もできない。間違いなく、誰も彼をケアする人がいなければ、24時間以内に死んでしまうだろう。しかし、彼は、コロナ以前の数年間、正式な音楽療法を何度も受けただけでなく、自宅や平日に通う介護施設「ゆかりの木」でも音楽を作ってきた。彼は言葉を発せず、音楽を遊びや楽しみ以外のものとして「理解する」ことはおそらくない。多くの曲を認識し、介護者(または親)が、その曲を歌ったり、ハミングしたり、口笛を吹いたりするまで、しつこくの口に触れることはあるものの、手を十分にコントロールすることができないため、決められた一つの曲の演奏を学ぶことはできない。すなわち、彼には、演奏の「技術」(この言葉は通常、たゆまぬ練習を通して身につける技術という意味で使われる)がまったくないのだ。しかし、彼は長い間音楽を作り続け、その音と、多くの「楽器」によってもたらされる身体的、触覚的な体験に没頭しているのだ。おもちゃや出会ったモノの中から見つけたガラガラやシェーカー、シンプルな電子キーボードなど、様々な「楽器」が含まれている。カシオのキーボードでは、意図的に黒鍵を叩いて(もともと指が押しやすいからかもしれないが)一定のリズムと音程を刻むが、時折隣の白鍵に触れて半音を出すなど、より「渋い」音色を入れて楽しんでいるようである。また、クラウディオはキース・ジャレットやパブロ・カザルスのようにとはいかないが、負けず劣らず彼なりに歌う(呻く)こともある。
2022年5月 カシオキーボードで音楽を楽しむクラウディオ・ヨシユキ
独奏は、(他の人間がいるいないにかかわらず)神聖な意図を持って行われることもある。この場合、人間の「音楽を奏でる」行為者の主観性は、神々の存在とエージェンシーを理解することの一部でもある。しかしながら、日常的な生活において、ほとんどの音楽家は他の音楽家に気を配らなければならない。世界的には、声を伴う楽器演奏や、他の楽器とのアンサンブルは、ソロ演奏よりも一般的であろう。自身の楽器の音や強弱、あるいはテンポを相手の音に合わせ、時には指揮者の指示に従いながら、協働して演奏しなければならない。つまり楽器の演奏(歌は除く)に考察を限定しても、社会的・相互的な体験としての音楽は、孤独での演奏よりも一般的なのである。そして、デュエット、トリオ、カルテット、バンド、吹奏楽、ガムラン、組太鼓、祭りばやしなど、あらゆる種類のアンサンブルで、共同で楽器を真剣に演奏することで生まれるものは、他の演奏者と一緒に音楽を聴き、音楽を「動かす」特殊なスキルである。音楽学でそれは合奏練習と呼ばれる。それは各奏者が奏でる音楽の細部、特に他の演奏者に呼応して音をリアルタイムに瞬時に配置し、形を整え、調整することで表現される。その不可思議だが極めて重要な現象は、デュオであれ、ジャワのガムランや西洋のオーケストラのような大編成であれ、あるいはその間のあらゆる次元のグループであれ、人々が楽器を一緒に演奏した時に起こる。また演奏がうまくいったときには、心からの充実感(それを「喜び」と呼ぶ人もいる)と、表立ってはいないかもしれないが、何時間もの余韻を残す、まさに「コミュニタス」というべき余韻が生まれる。
そしてもちろん、一緒に演奏するミュージシャンの向こうには聴衆がいる。コンサートホールでは何百人もの聴衆のために演奏し、公園やパブ、クラブでは聴衆になってくれそうな人やダンサーのために演奏し、リビングでは向かい側にいるたった一人のためにも演奏するのだ。音楽家は聴衆に対してどのような態度をとるのだろうか。自分自身がやっていることの影響を無視して、音を聴衆の近くにただ「置」くだけで十分な人もいるかもしれない。世界的に有名な演奏家でも、観客にほとんど無関心に見える人はたくさんいる。しかし、彼らは、楽器を精巧に演奏しさえすれば、「音の楽しみ」がリスナーに届き、影響を与えることを知っていて、そのように振る舞っている。そうすれば、演奏者自身は、言葉や視覚、または音楽以外の媒体で聴き手とコミュニケーションをとる責任を手放すことができる。一見飄々とした演奏の中にも、聴き手に対する利他的な志向が内在しているが、それはすべて演奏の質に現れているのである。
歌における言葉の要素を抜きにしてもなお、音楽演奏は真剣に聴く人すべてへの贈り物である。ここで言う「聴く」とは、ただ音そのものを「聞く」のではなく、身も心も没頭し、流されるように音楽に捧げる、つまり、楽器から与えられ、演奏者から提供される贈り物を完全に受け取ることを望むという事である。
注: 今のところ、私は人間の声を除外する。というのも、私たちの声は歌の中で最も頻繁に言葉を生み出し、それによって意味、意図性、受容の問題を飛躍的に複雑化する同時性のある記号体系を融合させるからである。