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余計なモノ 木内久美子

2022.07.01

 数年前、アイルランドのバイリンガル作家であるサミュエル・ベケットの演劇作品のなかで、もっとも上演数が少なく、おそらくもっとも読まれていない「演劇のためのスケッチ2」を翻訳する機会をいただいた。ありがたいことにこの翻訳の仕事のおかげで、以前にもまして、ベケット作品における固有名詞に執着するようになった。というのも、ベケットの演劇作品のなかでは珍しく、この作品には固有名詞がかなり多く、かつユニークな名前ばかりだからだった。
 時間をかけてほぼすべての固有名の語源や含意を突きとめたが、ひとつだけ調べのつかない名前があった。フランス語版の「Gravural」だった。長らくあきらめていたのだが、ある日ふとGoogleでイメージを探したところ、フランスの骨董屋のサイトがヒットした。所々ペイントの剥がれたオレンジ色の円筒上の缶に「gravural」という文字が読み取れる缶の画像がアップされていた。「granulé effervescent」とあるから、どうやら水に溶かして飲む薬らしい。その下にある細かい字は、検索されたイメージからは読み取れなかった。何の薬か知りたくなり、私は迷わずこの缶を購入した。
 届いた缶は尿酸と尿道結石の薬の缶だった。この情報は作品の解釈をかえって混乱させることになった。
 余計なモノを作品からことごとく取り除いていたベケットは、このことをきっと笑っているだろうと思う。物は増やさない、減らすこと!
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 ベケット作品の中に「モノ」を媒介に利他を強いられている登場人物がいる。演劇作品『勝負の終わり』(1957)のクロヴだ。この作品には登場人物が四人いるが、クロヴは唯一、歩ける人物である。他方、クロヴの育て親を自称する主人公のハムは目が見えず、かつ車椅子生活で、自ら車椅子を動かすこともままならない。ハムの親らしきナグとネルはさらに悲惨で、ドラム缶のなかに閉じ込められている。
 クロヴは観客席から見えない自分の部屋にいる。ハムは用事があるとホイッスルでクロヴを呼び出し、命令を下す。クロヴは抵抗したり文句を言いながらも、結局は命令されたとおりに動く。ハムはクロヴの匂いを嫌っており、用事がないかぎりはクロヴを近づけない。その命令の遂行は、多くの場合「モノ」を媒介とする。両親に「お粥をやれ」と言われれば食べ物を運び、天気が知りたいと言われれば、双眼鏡と梯子を持ち出してきて、天窓越しに「灰色」しか見えない外の景色を繰り返し確認する。またノミが出れば、殺虫剤を撒く。
 このような命令と「モノ」を媒介とした遂行という二人のやり取りが続くかぎり、原理的にこの劇は永遠に続くことができる。二人はそのことを知っており、クロヴは命令に従う自分に嫌気がさしている。ハムはなぜクロヴが自分を殺さないのか、この「遊び/演技(play)」を止めないのかと、繰り返し問いかける。その問いかけはクロヴにとっては皮肉にしか聞こえない。なぜならば、ハムのみならず他の2人も、クロヴがいなければ死んでしまうからだ。「モノ」の存在と往来は、クロヴ以外の登場人物の命の存続にも関わっている。
 だが、二人の心理ゲームを差し置いて、そもそも二人を媒介する「モノ」が知らぬ間になくなっていく。その兆候は劇のはじめにすでにみられるものだ。ハムの両親に与える「お粥」はすでになく、代わりにビスケットが運ばれる。ハムからナグに約束された砂糖漬けのプラムは結局一度も配給されない。ハムへの鎮静剤の投与のタイミングは先延ばしにされ、最後にはそれが「もうない(no more)」ことがクロフによって宣告される。そもそもハムには入る棺すら残されていない。あるいは自転車のように、欲しかったけれども手に入れたことはなく、そもそもなかったのかもしれない。
 媒介する「モノ」がなくなるとき、二人の関係を支える習慣の反復、命令と遂行のループも収束に向っていく。劇の終盤で二人は別れの挨拶らしき言葉を交わす。クロヴは一度舞台を去ったあと、再び旅向きの服装で舞台に戻って来るが、もはやハムの呼びかけには答えない。ハムはホイッスルを首から外し、床に投げつけ、「父(ナグ)」を呼ぶ。反応はない。ハムはこのことにむしろ満足だと言わんばかりに「よし(Bon/Good)」と言い、最後の独白を述べ、劇の冒頭と同じように古布で自らの顔を覆う。クロヴはハムの方を見つめたままでいる。そして幕が下りる。
 このように『勝負の終わり』における「モノ」についてまとめてみると、「モノ」は軒並み何かの目的に使用されるためにある、いわば機能的な「モノ」であることが分かる。だが、『勝負の終わり』のあとに書かれた劇では、「モノ」の特徴が少し異なっているようだ。『クラップの最後のテープ』では、「モノ」は主人公を振り回す。過去の録音を聴くために置かれたテープレコーダーだが、登場人物が聞きたい場所をうまく探し当てられずに腹を立てる。内省するために口にくわえるためのバナナは、床の上に置かれれば登場人物を滑らせ転倒させる。この劇では「モノ」がハプニングを呼び寄せているのだ。また二幕劇『ハッピーデイズ』では、「モノ」の性質が変貌する。一幕では腰までが土の山に埋もれている主人公のウィニーの目の前に並べられた「モノ」(パラソル、歯ブラシ、櫛、鏡など)は日常生活における彼女の習慣の反復を支えている機能的な「モノ」だ。だがこの二幕劇では、別の意味でも「モノ」の存在が際立ってくる。二幕ではウィニーは肩まで土に埋もれてしまい手を使えなくなってしまうのだ。すると「モノ」は習慣の反復を担う存在から、かつて習慣によって支えられていた日常生活があったこと、その習慣の継続、ありふれた日常生活が不可能であることをウィニーに思い出させる存在へと変わる。
 機能という点から見たとき、変貌したあとの「モノ」には使用価値がない。「余計なモノ」は処分すれば清潔で制御しやすい空間が生み出せるし、ベケットの場合、1960年代以降の演劇では抽象化の方向に向かっていった。だが「余りモノ」を処分することで得られる制御可能性、それによって得られる快楽や満足感は、次から「余りモノ」を出さないように生活空間を設計するという誘惑に屈してしまうかもしれない。それは余剰や不必要、意外性の可能性も排除してしまうかもしれない。ベケットは後期の作品で「痕跡」の表現を通して、「知覚されてはいないが存在してはいる何か」の存在を示唆しつづけたが、それは『勝負の終わり』にみられるような「媒体としてのモノ」の具体性を伴ってはいない。
 今日の文化では、断捨離や終活にみられるように、人々は身の回りをきれいにすることを奨励されているように思える。もちろん片づけることも大事だけれども、すこしは「余りモノ」を見えるように残しておいてほしい。そうした「余りモノ」でなければ、偶然性を呼び寄せたり、他者に出あわせたりすることができないからだ。使用価値のない「モノ」は一見無駄にみえるかもしれないが、ふとしたときに私たちの小さな歴史の目撃者になることもありうる。それは容易に忘却されてしまう過去だけでなく、私たちの忘却をも目撃する存在になりうるのだ。
 …となれば、片づけられない私がこの小さな骨董品「gravural」の可能性に大きな期待を寄せている理由がお分かりいただけるだろう。「Gravural」はベケットが自らに仕掛けた目撃者かもしれないのだ。