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靴 木内久美子

2023.07.31

2022年11月19日、私は埼玉県芸術文化センターの大ホールで、フランス人ダンサー・振付家のマギー・マランが演出したダンス公演『May B』(1981年初演)を見ていた。その公演のなかで、釘づけになっていたのに、いつのまに視界から消えてしまっていたものものがあった。ダンサーのバレエシューズだった。

なぜ釘づけになったかというと、靴が衣装のようなダンサーのためのものから、独自の存在を主張するものに変化したように思えたからだった。公演の前半のあるシーンで、ダンサーたちはカーニバルの音楽に合わせて、それぞれのペースで踊りに没頭していた。すると、にわかに音楽が聞こえなくなり、ダンサーたちが次々とバレエシューズを脱ぎはじめた。まるでその動きが日常の所作の一部であるかのようだった。いつの間にか、舞台の右側(客席の右側)には、靴がずらりと並んでいた。照明が薄暗くなると、ダンサーたちは首を左右に傾け、両手を頬に当てた。このジェスチャーは、沈黙とともに、確かに眠りを暗示していた。しかし、この沈黙は長くは続かなかった。照明が戻ると、ダンサーたちはペースを取り戻し、今度はより勢いよく、二人一組で踊っている。靴はしばらくステージ上にそのまま放置されていた。私はいつまでその靴を見つめていたのだろう。自分の視線に気づいたとき、その視線は靴ではなく、ダンサーに向けられていて、靴は消えていた。

靴に興味を持った理由はいくつかある。まず、その靴がバレエシューズであったことだ。若きマランは、モーリス・ベジャールのバレエ団に所属するダンサーだった。スタンダードなバレエやダンスでは、音楽のリズムに合わせて、優雅に美しく踊るのが通例である。マランは、もともとこのことに疑問を持っていなかった。しかし、ベケットの戯曲を読んで、自分の踊りが気づかぬうちに、老いや身体的な障がいを排除していることに気がついた。彼女は、ダンスは「ダンスはあらゆる年齢、身体、民族の表現であるはず」だと感じたという。『May B』でマランは、ベケット戯曲の登場人物をモチーフに、さまざまな障がいを持つ人物を演出し、インクルーシブなダンスを創作した。

目の前の舞台をよそに、私はこんなことも考えていた。靴を脱ぐことの意味が、文化によって異なるということだ。日本で生まれ育った私は、家の玄関で靴を脱ぐのが当たり前だと思っている。しかし、ヨーロッパではそうでない場所もある。マランはフランスを拠点に活動するフランス人の芸術家だから、彼女の文化圏では、靴を脱ぐ行為は何か違う意味を持つのかもしれない。フランスに1カ月滞在していたとき、私は当たり前のように学生寮の自分の部屋の入口で靴を脱いでいた。だから同じ寮で知り合ったフランス人学生が、土足で次々に入ってくるのを見て、彼らの足跡が外と内の境界を消してしまうような気がしていた。いつ靴を脱ぐのかと尋ねたら、ベッドに入るときだけだと言われたのを覚えている。

6年間留学したイギリスでも、同じような経験をした。招かれた家では、どこでもきまって靴を脱がないでいいと言われた。ある家では、床があまりにきれいだったので、思わず靴を脱ぎましょうかとたずねてしまい、日本人はきれい好きね、でも靴は履いていてね、と笑われたことが何度あったことか。(それから15年経ってイギリスでも玄関で内履きに履きかえる人が増えたようだ。)

それでも、ある種の習慣は理屈よりも感覚的なもので、私には家の中でどうしても靴を脱がずにいられない場所があった。それはイギリスでバスルームと呼ばれる、トイレとお風呂が同じ空間にある場所だった。どうしても土足で入るのがはばかられるときは、そっと靴を脱いで、そのことに気づかれないように扉の内側に入れて、誰にも見られないように鍵をかけていた。そんな私の意識を変えたのは、もしかするとキノコだったのかもしれない。ある浴室で、ピカピカの白い浴槽のなかに、庭からもってきたばかりのような茶色い粗土を敷き詰めた発泡スチロールの箱が並べられ、白くつややかなキノコが頭を出してぬくぬくと育っているのを見つけた。それはなんだか不思議な気分で、やっぱり外・内という感覚は、文化的な慣習にすぎないのだと認めざるを得なかった。

靴は内と外の境界を定義し、その境界はほとんど規律であるかのように内面化されていた。だが気づけば、間もなくして私が家のなかでも靴を履いて歩くようになっていた。だから日本に帰国してしばらくは玄関で靴を脱ぐのが億劫だった。部屋を出て鍵をかけ、速足で数歩歩いたところで忘れ物に気づき、部屋に戻る。そんなとき玄関を開けるや、靴のまま入ってしまえという思惑がよぎり、なんとなく立ち止まってしまうのである。そうできたらどんなに幸せだろう、なんて思ってしまう。すると「家の中で靴を履くのは亡くなった人だけ」だと誰かに言われたことを思い出した。私はまだ生きているのだから、と自分を説得する。それは合理的な説明でもなんでもなく、ほとんど言いきかせのマントラに近い。身体化された日本の内外のルールは、そのままマランの劇に当てはまるわけではないが、靴がなんらかの外と内の境界づけに関わっていることは、どの文化にも共通している。

また公演を観ていて、こんなことも考えていた。靴を履かずに踊り始めたダンサーたちは、もしかしたら夢の中にいるのかもしれない。フランスで靴を履くのはベッドに入るときと出るときだけだとすれば、靴を履いていないあいだは、ダンサーがまだ目覚めていないということにならないか。靴を脱いだあとのダンサーたちの動きは、眠りのなかの出来事なのではないか。私の記憶では、ダンサーが靴を履き直すシーンはなかったし、公演パンフレットにも、裸足のダンサーの写真ばかりだ。もちろん、これは私の解釈にすぎないけれど、もしダンサーがその後ずっと靴を脱いだままだったとしたら、靴を脱いだ時点で目覚めている現実の時間は終わっており、残りは夢の眠り=夢時間だったと考えることもできる。

この解釈はたんなる思い込みではなく、マランが影響をうけたベケット劇から敷衍されたものではある。靴を脱いでベッドに入るという一連の動作は、ほぼまちがいなくベケットのマイム劇『言葉なき行為 II』を参照している。この作品では、登場人物が起床から就寝までの日常の所作の連続を二度演じる。一度目は機敏で幸せそうだが、二度目はのろのろと不機嫌だ。どちらでも登場人物は出かける前に靴を履き、床に就くまえに靴を脱ぐ。このルーティンの繰り返しの中で、靴をはじめとした「もの」と行為の切っても切れない関係が可視化され、「もの」が自らの存在を主張し始める。

とはいえ、靴を履かないダンサーのパフォーマンスには、夢の時間という非現実的な形容を許さない身体運動のリアルがあった。その不随意に生ずる動きや小さな震えは、私には彼らの身体性そのもののように感じられた。それは他界したばかりのその人の最期に、必死で探した生のしるしを思い出させた。歩けなくなって靴を失っても、人は生きているかぎりどこかで震え続けている。私はダンサーたちの身体の震えを必死に捉えようとした。まだ生きていてほしかった。

送るときだけでも馴染みの靴を履かせてあげたかった。けれどもゴム底のスニーカーも革靴も、高温の炉では溶けて飛び散るかもしれず、それが炉にこびりつくと、炉そのものが壊れてしまう可能性がある。だから靴は無理だった。それでも旅路に履物は必要だというので、布の足袋を履かせて送り出した。

そのとき靴はただの「もの」ではなかった。靴を履くことは自分の足で歩くことを暗黙の前提としている。私たちはあたり前のように靴を履いているから気づかないけれど、靴を履けなくなったとき、人は自分が命から遠ざかっている感覚を持たずにはいられない。だから生きるために人は靴を欲する。例えば大岡昇平の自伝的短編小説「靴の話」は、この点で非常に示唆に富んでいる。太平洋戦争中、主人公は戦地で瀕死状態にある兵士の新しい鮫皮の靴を狙っている。実は、その靴は魚の皮のように水を通し、足元を冷やすだけなのだが、主人公はその靴に執着し、兵士が息を引き取るのを待って、靴を持ち去る。

一方、同じ戦中に鮫皮の靴を笑い飛ばした子供がいた。のちの作家・須賀敦子である。叔母がなんとか見つけてきた鮫皮の靴は、雨が降ると糊が溶け「ぐしゃぐしゃ」になってしまった。「サメだから、水に出会ったとたん、溶けちゃった」。子供の冗談に叔母はつらそうな顔をしたという。

彼女の小説『ユスナールの靴』は、こう始まる。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶに自分が行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

なぜだかわからない。不当だと分かっていながら、この文章を読み始めるなり、私はどこかで反論しはじめる自分を感じていた。完璧な靴なんてあるのか。デザインが気に入れば足に合わず、足に合う靴はデザインに妥協する。そんなことのほうが多い。そんな「不完全さ」こそが、靴の条件ではないのか。だとすれば須賀さんにとって、靴を探し続けることは書き続けることと同義だったのではないか。もしこのことに一抹の真実があるとすれば、須賀さんには申し訳ないが、読者は須賀さんが完璧な靴を手に入れなかったことを喜ぶべきだろう。

歩き始めと同時に靴は完璧な形を失いはじめ、すり減ってゆく。地面にこすりつけられた靴底は、元の形を失う。同時にその一歩一歩が足を靴に馴染ませ、この意味では完璧に近づいていく。歩いた痕跡は靴底にさまざまな形で現れ、そのかたちは持ち主だけに固有のものだ。歩けば歩くほど完璧さから遠ざかりながら同時に近づきもし、だからそこに完璧はありえない。そして靴は持ち主の生を生き延びる。そのユニークな痕跡を通じて、私たちはその靴の持ち主の所作の集積に接することができる。その痕跡は私たちを物質として死者に結びつけてくれるのだ。

このことはこの先も変わらないだろうか? デジタル化時代の私たちは、靴とどう付き合っていくだろうか。靴との付き合い方が、すでに身体化されている私たちの規範=内外の境界を動かす鍵を握っている。