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レゴの創造力—モノと身体の利他的な関係 北村匡平

2022.07.01
 幼い頃、レゴブロックが大好きでたくさん遊んだ。
 もちろん、幼少期に遊んだのはレゴだけではなく、ミニ四駆やガンプラ、城のシリーズのプラモデルなど組み立てるもの全般だったが、とにかく何かを創ることが好きだった。けれどもレゴが持つ自由な遊びの感覚は特別で、一番長く親しんで遊んでいたように思う。
 僕が小さかった頃のレゴは、今ほど種類もなく、デザインもかなりシンプルだった。誕生日やクリスマスに新しく買ってもらうたびにパーツが増えてゆき、建物やロボットを作っては分解し、大きなボックスにまとめて片付けていた。だから遊びはじめるとき、何もないところからパーツを組み合わせ新しい世界を創ることができた。ゲームでいえば『マインクラフト』のクリエイティブモード(好きにブロックを使って世界を構築できるモード)に近いだろうか。
 高校生になると楽器を習っていたので作曲にはまり、学校が終わったらすぐに帰宅してMTRで音楽を制作した。楽器を演奏できたのでギターやベース、ドラムに加え、シンセサイザーで鍵盤や弦楽器の音を作り、録音してレパートリーを増やした。高校を出てからは仲間たちと映画作りをやった。とにかくゼロから何かを創り出すことが根っから好きだったのだと思う。それはいまの本作り(執筆業)とも地続きであることはいうまでもない。
 父親になって子供にレゴを買ってやることが増えた。「想像力を育む」というよい印象が漠然とレゴにはあったから他のおもちゃよりも手が出しやすかった。ところが、今のレゴは昔とはかなり違ったものになっていた。むろん昔からあった乗り物やロボットなどもある(従来のレゴと比べると、かなり精巧な作りになっている)。だが、レゴストアに行っても明らかなように、主力商品はスターウォーズやマーベル、ディズニーとタイアップしたキャラクター商品ばかりになっているのだ。
 子供に買ってまず思ったのは、こういったレゴは完成形が明確に存在し、優れたデザイン性を有するため、一度組み立てると壊しにくいということだ。実際、我が家に限っていえば、このようなレゴは作り終えるとコレクションケース行きで、僕がかつて遊んだように壊すことはない。他のレゴとくっつけたり分解しようとしたりしようものなら「壊さないで!」と怒られてしまう。このような複雑なレゴは精巧な「プラモデル」にほかならず、完成させたら次の商品へと購買行動を促す資本主義の権化のようなものに感じられた。レゴブロックを自由に組み合わせて創造的営みをするのではなく、完成図を見せられ、それを模倣するだけ——まるで自発性や創造力を奪われた従属的な消費者だ。
 こうした反発もあってか、レゴには「クラシック」と呼ばれるシリーズがある。何か明確な完成形があるのではなく、さまざまなパーツが入っていて好きに組み合わせられる昔ながらのレゴブロックだ。誤解のないように言い添えておくと、僕は何も「プラモデル型のレゴ」を頭ごなしに批判したいのではない。レゴは大人もはまるほど魅力的なおもちゃであることは間違いはない。ただ、子供の想像力を培うモノの利他性の側面から見て、上述したような感覚を抱いたのだ。
 現在のレゴは、かつてないほど二極化している。一方は、「終わり」が提示され、プラモデルのごとく説明書を見て人気キャラクターを再現することが目指される。創造/破壊がセットではなく、想像力は収奪され、子供の創造性を画一化するプロダクトとしてのレゴ。他方は明確なゴールがない。延々と「完成」することなく、「プロセス」そのものが前面に押し出される。創造/破壊が繰り返され、想像力を誘発するモノとしてのレゴ——
 子供の想像力を伸ばすためには、「プラモデル型のレゴ」を与えるのではなく、「クラシック」シリーズなどシンプルなパーツがたくさんあるレゴで遊ばせなければならない、と考えるのは早計である。なぜなら、ゼロから組み立てる「クラシック」をよかれと思って買い与えても、見本や説明書なしにどうやって遊べばいいかわからない子供が想像以上に多いからだ(実際、子供に「クラシック」を買っても、少し挑戦してまったく遊ばなくなった)。大人の理想と子供の現実は違うのである。
 その要因を探り当てることはここでの目的ではない。そうではなく、ゼロから創ることが苦手な子供が想像力を育むために、モノとしてのレゴは、いかに利他的に存在しうるのか、ということを考えたいのである。以下、あくまで自分の3人の子供たちの「遊び」を観察してではあるが、二つのシリーズについて考えてみたい。一つは比較的新しいレゴ・クリエイターの「3in1」というシリーズ、もう一つは任天堂の人気キャラクター・スーパーマリオとコラボした、2020年に発売されたばかりの「レゴマリオ」シリーズである。
 前者は、購入したセットから3つのモデルが作れる「3in1」というコンセプトで、一見すると高いコストパフォーマンスをもつお得な商品だが、モノと利他の点で重要なのは、ゼロから創れない子供に、 説明書とともに3種類のモデルを提示し、創造性への「橋渡し」をしてくれることだ。同じパーツからこれだけ違うものが作れるという感動を引き起こし、何度も組み替えて遊ぶ気にさせる。それ以上に重要なことは、組み立てるのと同時に解体することが前提となっている点だと思う。すなわち、模型のように組み立てて「完成」するのではなく「崩せる」という感覚も植え付けるのである。放っておくと、そのうち3つの「模範解答」を逸脱しはじめる。複数の3in1シリーズのレゴ同士が、いつの間にかテーマを超えて融合し、モデルにはなかった新たな物体がいくつも作り上げられていた(「プラモデル型レゴ」ではこんなことは一度も起こらなかった)。こうした段階的なプロセスが与えられれば、子供は「クラシック」と同じようにレゴブロックを使い、創造力を培っていたのだ。
 もう一つの「レゴマリオ」は、コースをどんどん拡張していく必要があるため、最初は「資本主義の権化」と敵視していた。だが、3つ、4つと増やしていって遊んでいる姿を観察していると、これまでにないレゴ体験を生み出していることに気づくようになった。複数のレゴブロックを組み合わせてオリジナルのコースが作れるというのがコンセプトなのだが、面白いのは自作コースをマリオやルイージを手に持って冒険させられるところだ。ヴァーチャルなゲームの世界ではなく、リアルな世界にコースを作り、仕掛けや動かし方によってディスプレイの表情や声が変わる。敵を踏みつけたりゴールに辿り着いたりするとコインがゲットできる。マリオ/ルイージの声や馴染みのあるサウンドが、アクションに応じてフィードバックし、遊ぶ手とモノがインタラクティヴな関係をかたちづくるのである。自分で自由にクリエイトした世界をフィードバックとともに冒険し、触覚・聴覚・視覚を総動員して創造的な楽しさを生み出す点が子供を身体感覚的に喜ばせているのだ。
 高度に洗練された「プラモデル型レゴ」と違って、上述の二つのレゴシリーズには共通点がある。まずは既成のイメージの模倣(完成)で終わらずに、構築(創造)/解体(破壊)を反復し、プロセスそれ自体が重視される点、それに加えて、モノとしてのレゴの形状が、遊んでいる子供以外に排他的に機能するのではなく、複数の子供たちを媒介して身体的なコミュニケーションを可能にしている点である。
 遊びを観察していると「プラモデル型レゴ」とは手の動きやレゴと子供の関係性がまったく違っている。模型系の場合は説明書に書かれたパーツを見つけ、模範例にしたがって組み立てる。もう一方のレゴは、次に何を組み合わせようかその都度イメージを描き、それにふさわしい部品を選ぶ。「プラモデル型レゴ」は完成形が決まっているため他の子供が参与しづらく、一緒に作るとなれば正解は一つしかないため競争が生まれる。ひとたび完成すると手を加えられるのも嫌がる傾向にある。
 一方、バラバラになった「3in1」や「レゴマリオ」のコースでは(喧嘩することはまったくないとはいわないが)協働して創作する局面が多々見られる。そのようにして自分が想定していなかったパーツが混淆するときこそ、もっとも創造性が生まれる契機があるように思う。排他的に人間(身体)に関わるモノではなく、利他的なコミュニケーションを働きかけるモノとしてのレゴブロック——日常の遊びを促すモノのなかにも、私たちは利他の可能性を見出すことができるのだ。