僕が公園の遊具に関心をもちはじめたのは10年前に子供が生まれて以来、頻繁に公園に行くようになってからだ。週に最低1回は大きな公園に連れていくし、平日も帰りに少し遊ばせることもある。2020年、コロナ禍になって遊具への関心はさらに高まった。商業施設や混雑した場所を避けて生活しなければならなかった時期に郊外の人気のない公園に行ったり、混まない夕方の時間帯を狙って公園に行ったりすることが増え、保育園や小学校が休みになった時期には、ほとんど毎日のように公園に行った。
色々な公園に行って子供の遊びを観察していると興味深い行動がたくさん見られる。ある遊具には人が群がってきて様々なコミュニケーションが交換されるのに、ある遊具にはまったく関心を示さず少し遊んでは離れていく。遊具の中には、集まってきた人びとを競わせるものもある。もちろん子供たちはこの遊具は競争を促すものだとか、この遊具は他の人と楽しく遊べるとか、頭で考えて遊んでいるわけではない。無意識のうちに遊具と関わる子供たちの動きやコミュニケーションを、モノが個別に導き出しているのだ。
新型コロナウイルスの感染者が少なくなり、猛暑や厳冬の時期には室内遊び場に行くことも多いのだが、そこでも同じような遊具と子供、すなわち「モノと身体」の興味深いコミュニケーションが交わされていた。遊具の〈かたち〉や機能が、子供たちを引き合わせたり引き離したり、競争させたり仲良くさせたりする。実に興味深く、遊具の存在論について考えたいと思った。そういうこともあって、利他プロジェクトの一環として、子供たちの遊具を媒介にした遊びのありかたを観察するために今は色々な公園にフィールドワークに行っている。
遊具は人と人を媒介するモノであり、「人間+モノ+人間」の間に生成する〈利他〉を強く感じさせる。誰もが子供のときに公園の遊具で遊んだ経験があるだろうし、日常で子供の遊び・学びに実は深く関与している存在だ。いずれ利他と関連する遊具の存在論についてはきちんと本にしたいと思うが、今回は近所の公園にある何の変哲もない遊具を一つ紹介したい。その遊具の利他的な特性を捉えるために、同じような機能を有する他の遊具も一緒に紹介していこう。
まずは地球儀のような球体を旋回させて遊ぶジャングルジム(正式名称:グローブジャングル)。昔ながらの人気が高い遊具で、学校の校庭や公園に設置され子供たちに愛されてきた。昔はこういったスリルのある回転遊具は散見されたが、近年では事故のリスクもあって撤去されることも増え、全体として激減しているようだ。とはいえ、子供をわくわくさせる遊具の一つであることは間違いない。
環境建築家の仙田満は「遊環構造理論」を提唱し、公園にかぎらず学校や公共施設、街など広く環境のデザインを手掛けてきた。その理論が遊具において重視するのは「めまい的あそび行動」であり、グローブジャングルもまた〈めまい〉体験を引き起こす遊具にほかならない。僕の家の近所にもこの遊具が設置されたごく小さな公園があり、子供たちはそこを「グルグル公園」と呼ぶ。
この遊具は、内/外が明確に境界づけられているのが形状としての特徴である。むろん一人で回してから飛び乗ることもできるにせよ、一般的に回す人/回される人にわかれて集団で遊ぶ。子供の行動を観察していると、たいてい回す人は速度をあげて目一杯回し、その旋回するスリルを楽しむ子供が多い一方、全員がそういうこともなく「もうとめて!」と叫んだり、「怖い…」と泣き出しそうになったりする光景もしばしば見る。回される人が想像以上に怖くなって降りようにも、スピードがつけばなかなか降りられない。時に回される人の怖がる様子を見て、回す人が楽しむことさえあり、悪ふざけが過ぎると、遊びを楽しく継続できない。
もう一つ言及しておくべきなのは、この遊具の形状が時折、人に排他的に作用することがあるという点だ。あるグループが「グローブジャングル」で遊んでいると、どうやら途中にはこの遊具に入りづらいようで、別のグループはひたすら順番を待つしかない。すなわち、グループ単位で見た場合、こういった回転遊具は、見知らぬ人同士を結びつけるというより、モノの形状が人びとの関係の可能性を「切断」するという側面があるように思われるのである。
これと遊び方が似た回転遊具で、ちょっと変わった遊具が近所の別の公園にある。「グローブジャングル」とはまったく異なる仕方で人と人を結びつけるドーナツ型の回転遊具だ。正式に何と呼ぶのかはわからないが、「ドーナツ遊具」とここでは呼んでおく。一見、シンプルで特段目を引いたり豪華だったりするわけではないが、あまりこのタイプの遊具を僕は見たことがない。この公園には他にも滑り台や砂場などがあるのだが、「ドーナツ遊具」が象徴性をもっているのだろう、子供たちはこの公園を「ドーナツ公園」と呼ぶ。何が楽しいのか伝わりにくいかもしれないが、この「ドーナツ遊具」が非常に面白い。子供たちの遊びの行動観察をしていると、この遊具の利他的なポテンシャルはきわめて高いのではないかと思わされるのだ。
まず「ドーナツ遊具」は「グローブジャングル」のように早く回すことはできない。そもそもこの遊具は重くて回すのにはそれなりに力がいるため、一人で遊んでもあまり楽しむことはできない。だから複数人で乗って、入れ替わり立ち替わり、回しては乗り、乗っては降りる流動性が子供たちの動きには見出される。押す力がかなり必要なので、疲れるとまたがり、誰かが乗ると動きを途絶えさせないよう他の子供が降りて回し始める。いわば「ドーナツ遊具」に関わる子供たちの協働的な力によって、この場の遊びが成立する。
興味深いことに、誰かが遊んでいる途中で遊具が回っていても、他のグループがスッと乗って一緒に遊ぶこともある。先に述べたように「グローブジャングル」は回っている途中に別の集団が入ることは難しく、別のコミュニティ同士が関わり合うことが少ない。ある意味で遊具の占有と排他性を生み出すことさえある。一方、「ドーナツ遊具」のモノの形状と運動は、知らない子供同士を引き寄せ、言葉を介することなく助けあったり楽しませあったりしながら力の交感が行われている。この遊具が好まれる要因として他にあげられるのが丸みを帯びた形と絶妙な横幅だろう。遊んでいる様子を見ていると、小さな子供たちはこの遊具にうつ伏せになってしがみつく。足と手を使って抱きつき、遊具と一体になった状態で〈めまい〉体験を全身で味わっているのだ。
この遊具が「斜め」に設計されている点も非常に重要だと思われる。斜めの形状による重力の作用によって、力を入れる箇所と抜く箇所があり、意思的に「動かす」ときと勝手に「動く」ときがある。 「グローブジャングル」は外の人が意思をもって主体的/能動的に「回す」遊具で、内の人は受動的に「回される」。その一方、「ドーナツ遊具」はこれがきわめて曖昧だ。自分が楽しむために上に向かって遊具を押す行為が他人の快楽になっていたり、全身で抱きついて重力に従って下降する行為が、意図せず回す人の助力になっていたりする。回していると思っていたら回っていたり、回しているはずが、いつの間にか回されていたりする。いわば「動かす」/「動かされる」の中間にある「動く」が絶え間なく遊びに介入する。その中動態的な遊びのありように、おそらく利他的なものが潜在しているのではないか。この遊具の形状と機能に、他者を迎え入れる包摂力、あるいは利他のヒントがあるように思われる。日常生活の中にある何気ないモノにすぎないが、遊具は実に奥深い。