利他学会議レポート:分科会3「社会の中の利他」
ゲスト:塚本由晴(アトリエ・ワン、東京工業大学 環境・社会理工学院 教授)/小林武史(音楽家、ap bank代表理事)
ホスト:伊藤亜紗・中島岳志・若松英輔(司会)・磯﨑憲一郎・國分功一郎
利他学会議は2日間のイベントなので、初日と最終日しかないわけですが、第一日目からあまりにも盛り沢山だったせいか、2日目の朝に目が覚めた瞬間、「本日最終日(今日で終わってしまう)」感が大波のように押し寄せてきました。まず1つ目のプログラムは、利他学会議最後の分科会。この会のゲストは、未来の人類研究センターの拠点となる「901」の部屋をデザインしてくださった東工大・塚本研究室を率いる、建築家の塚本由晴先生、そして先日伊藤亜紗センター長とウェブ上で対談したばかり(8月に書籍が刊行されました!)の、音楽家でap bank代表理事でもある小林武史さんです。
「今日のゲストは分野が違うんですけれども、実はとても近いところがある。その接点をみなさんにぜひ見つけていただければ。」分科会3の司会をつとめる若松英輔先生はこう語ります。それぞれ建築と音楽を専門分野にもつお二人が綴る「社会の中の利他」は、どのように展開していくのでしょうか。
資源的人のための建築・都市・社会(塚本由晴先生のお話)
●「資源的人(シゲンテキジン)」という発想が生まれるまで
「人的資源」をさきほどまでぼーっと聞き流していた私ですら、ここまで聞いてもう一度「人的資源」という漢字の並びを見つめるとゾッとします。そしてこの数十分後に國分先生がおっしゃるには、この言葉は日本では1927年に内閣資源局(同年に設置された国家総動員準備機関)が最初に使ったそうで、つまりは戦争に向けて作られた言葉だということですね。
さて、いったん話は変わりまして、他の研究室と合同で塚本研が設計した、4000枚のソーラーパネルが設置され、一般的な研究棟よりもCO2排出量を60%も削減しながら棟内の消費電力をほぼ自給自足できるという、東工大の環境エネルギーイノベーション棟(Environmental Energy Institute)は、2012年に完成しました。環境保全的にもデザイン的にも先駆的な建物としていくつもの賞を受賞しています。しかしこの建築に携わった塚本先生の所感は次のようなものでした。「建物のほうがスマートになっているから、自分は生活を変えなくてもいいと受け取られ、今まで通りの暮らしを続けることを助長することになりかねない。」
「建物の設計をするなら、そこで暮らす人がどんな人になりたいかに訴えかけていかないと物足りない」
塚本由晴
「彼らは海に出て魚を捕ってくるし、山に行って薪や山菜やきのこも採る。田んぼをやっている人もいる。いろんなところにある資源を少しずつ管理しながら自分のものにしていく、という暮らしをしていて、資源に向き合っているなあ、と思った。」毎日せっせとお金を稼ぎ、そのお金でエネルギーを買って生きる都会の「人的資源」との対比として、「資源的人」(自然から資源を取り出せるヒト)という発想が生まれたのはこのときでした。
●建築およびデザインを通じた復興への提案
「人が増えないとしょうがない」ということで、当時84歳の区長さんと一緒に塚本先生のパートナーである貝島桃代さんが中心となって始めたのは、「牡鹿漁師学校」。校舎もなく、プロの先生もいないなか、筑波大の学生さんたちと協力して、ロープワークや実際の漁を含む、漁師さんの生活を3〜4日体験してもらうというプログラムを、2013年から始めました。開催を何度か重ねるうち、塚本先生は漁師さんの生活は海だけでなく山にも密接につながっていることに気づきます。「これまで利用されないまま放置されていた杉林を伐採し、その木材を使ってビレッジを作れば、漁師学校を継続していけるんじゃないか、ということを思いつきました。」
●復興支援ボランティアから持続可能なプロジェクトへ
「もものうらビレッジ」で最初に行われたのは、木を切って空き地を作り、切った木を製材して家を建てる、といったもの。いくつかのタイニーハウスと、都市の人も集落の人も集まれる管理棟をつくり、それらのプロセスそのものが学校になっていきます。現在はそうやって建てられたタイニーハウスや管理棟、あるいはテントサイトに宿泊して、海と山を両方体感しながら「生きる術」や「生きる力」を手にしていく場所として運営されています。
塚本先生は、「もものうらビレッジ」が始まる前、東日本大震災が起こるよりも前から、建築のプログラムの1つとしてこうした都市農村交流に関わることが多くなっていたそうですが、その1つに「恋する豚研究所」という興味をそそる名前のプロジェクトがあります。千葉県香取市にあるこの研究所は、特別養護老人ホームなどの福祉施設を運営するNGOが開いた、障害のある人たちが正社員として働けるハム・ソーセージの加工場とレストランなどからなる建物です。
NGOの理事長は養豚家で、農福連携は当初からの夢だったそうです。研究所の完成後、周辺を覆っていた手付かずの杉林の手入れを始め、間伐材を薪にして乾かしていると、これを欲しがる人がたくさん出てきます。また、スプリッターという装置があれば障害のある人でも森の管理に参加できることが分かったことから、これはもう一つ別の仕事になると、森の間伐から薪の生産までを作業分解して障害のある人でも参加できる工程を見つけ、マニュアル化していきました。周辺の材木店にも協力してもらって、地域の材だけでつくられた「栗源薪炭供給所」が完成します。これと「恋する豚研究所」、周囲の畑、杉林が一体となった農的キャンパスに、週末にはたくさんの人が訪れ、都市農村交流の場となっています。
●ちょこっと仕事とふるまいの図鑑
こうした活動を行ううち、都会からは見えない小さな仕事がたくさんあることに気づいた塚本先生は、こうした「ちょこっと仕事」に都会の人がアクセスできるようになれば、これまでイベント的だった都市農村交流が、もう一歩進んだ形になるのではないかと考えます。「資源へのアクセシビリティをどれだけ作り出すかにかかっている。」
塚本先生は、自ら「ちょこっと仕事」をやってみながら取材をし、農村における「ふるまいの図鑑」を作成します。リスト化・目録化してアクセスしやすいようにしているほか、それぞれの「ちょこっと仕事」に紐づいている資源によって地図に落とし込んだ図もあります。「これは建築の図面ではありませんが、自分にとって建築というのは、今、こういうところに来ている。」
「資源と身体が出会うことによって、いろんなふるまいが生産されていく」
塚本由晴
環境エネルギー研究棟を設計されたときに感じられた違和感が、東日本大震災でのボランティア組織「ARCHIADE」での活動、牡鹿漁師学校(海編・山編)、もものうらビレッジ、恋する豚研究所を経て、「小さな地球」での活動をされるまでの道筋について、駆け足でお話をうかがいましたが、その時々の塚本先生の表情まで想像できそうなほどの実感を伴って迫ってきました。
History of ap bank/kurkku(小林武史さんのお話)
ap bankの誕生(ap bank、Bank Band、ap bank fes)
そして2003年、小林武史さん、櫻井和寿(Mr. Children)さん、そして坂本龍一さんが拠出した資金をもとに、自然エネルギーや環境保護などの取り組みに低金利で融資する非営利団体「ap bank」が生まれました。さらにこのap bankの活動資金を得るため、2004年にBank Bandを発足、今年もニューアルバムが出ていますが、発足以来、その収益はすべてap bankの活動費に充てているそうです。
さらに2005年に始動したap bank fesでは、その収益がap bankの活動資金となることに加え、自然エネルギーを積極的に取り入れるなど環境に配慮したつくりになっていて、フェスの参加者や来場者のみなさんが環境問題やエネルギー問題を考えるきっかけ作りとしても機能しています。静岡県掛川市つま恋で開催された初年度には3日間でのべ8万人を超える人々が来場。2022年はオンラインで10月に開催されました。
●音楽の外側へ(kurkku、PRE ORGANIC COTTON Program、KURKKU FIELDS)
食品に特化したプロジェクトとして始まったkurkkuは、さらにその翌々年の2007年、衣食住のもう1つの領域に進出します。伊藤忠商事株式会社 繊維カンパニーと協力して、農薬による被害を受けている農家をサポートするプロジェクトをスタート。これは、健康被害や経済的圧迫に苦しむインド農家が有機栽培へと転換し、有機認証を得られるまでの綿花を買いながら支えていくというもので、「PRE ORGANIC COTTON Program」と呼ばれています。ap bank fesのTシャツにもこのプレオーガニックコットンが使われているそうです。
さらにこの3年後の2010年には、食の有機栽培を自身らで行うため、千葉県木更津市に農業生産法人「耕す」を設立。ここではサステナブルな農地づくりを目指して、有機野菜の栽培と平飼い養鶏を行います。ここはその9年後、2019年には、連日多くの来場者を迎える「KURKKU FIELDS」として進化します。酪農・養鶏・ダイニング・ベーカリー・シャルキュトリー(加工肉)の販売所などを擁し、災害時には避難拠点としても利用可能、エネルギー面では2021年から70〜80%がオフグリッド化、という「循環」を意識した場所、すなわちこれまで小林さんがやってきたことの集大成と言える場所です。
●災害復興支援から生まれたReborn-Art-Festival、そして「利他」との関わり
東北に根を下ろしながら活動する小林さんたちは、宮城県の石巻を舞台にアートや音楽、そして食の総合芸術祭である「Reborn-Art-Festival」を始めます。震災による原発事故で大きな被害を受けた東北が「再び大きな経済に依存するのではなく、中から復興することを目指した」、というこのフェスは、小林さんにとってボランティアという外からの働きかけからさらに一歩踏み込んで、地域を知るためにとても有効な手段でもあったそうです。
「音楽フェスは長くて三日間。長く地域に入るために現代アートは有効。自然の力ってすごい、と常々思っていても、あまりにもそこにあるもんだからなかなか気がつかない。そこに想像力を駆使したアーティストたちの作品を持ち込むことで、化学反応が起こって扉が開く。」「いのちのてざわり」をテーマに開催された2回目(2019年)は44万人の来場者を記録、塚本先生との接点である「もものうらビレッジ」も、この頃から活発に動くようになっていったそうです。そして3回目のReborn-Art-Festivalのテーマは「利他と流動性」。こちらは2021年の夏と2022年の春の2期に分かれて開催されます。
「サステナビリティと自然災害のボランティアはいつもシームレスにつながっている」
小林武史
●自然災害との直面するなかで生まれたキーワード
アメリカ同時多発テロ事件(2001.9.11)、新潟県中越沖地震(2007)、東日本大震災(2011.3.11)、熊本地震(2016.4.14)、そしてこの新型コロナウイルス感染症と、小林さんは音楽活動を続けられるなかでさまざまな自然災害に直面するたびに、音楽、ボランティア、循環、サステナビリティ、いのち、流動性、そして利他・・・といったキーワードが実感としてつながっていく瞬間を体験されていったのかもしれません。
小林さんは、このお話の中で、大きなキーワードを2つ出されました。まず1つ目は「浮遊感」。これは音楽をやりながらずっと感じていた感覚だそうです。「答えに向かって演奏するというよりは、それぞれのメロディやリズムが、重なるように進んでいく。それが膨らんで浮遊したり、また沈んだりしながら、くり返していく。その中にある祈りや思いや細やかな流れを通じて、どんどん膨らんでいく。」
もう1つのキーワードは「彷徨う」です。これはKURKKU FIELDSを訪れる人たちにどんな思いをしてもらいたいか、と尋ねられて出てきた言葉だそう。「KURKKU FIELDSにいると、宇宙とつながっている感覚もあり、土の中の生き物やタンパク質、カルシウム、最小単位の微粒子にまで入り込んでいく方向もある。いのちを生むという奇跡を感じられる場所で、感じるけれども見えたり触れたりできるわけではない。」KURKKU FIELDSを訪れる人には、この「全体感と、自分とのつながり」を味わってもらえたら、と願っているそうです。
「アーティストは、知り得ないことや見えないことを、想像力で描き出す」
小林武史
ディスカッション
●「巻き込まれ力」について
塚本先生はこの問いかけに対し、「震災以降、デザインに何ができるのかを考えていた」、「震災直後によく使われていた“寄り添う”という言葉が、自分的にはあまりしっくりこなかった」、「自分自身が変わっていかないといけないんじゃないかと思った」と話します。日常を携えた自分が、日常を失ってしまった人を一時的に手伝う、というのは違和感がある、ということでしょうか。「相手と完全に一体化する(当事者になる)ことはできないが、変わることによって当事者性を作り上げていく、その“当事者性”には、他の人も入って来られる。」
一方、小林さんは「人のせいにしてばかりいるのはカッコ悪い、という思いがあった」と話します。そして関わってみると、「自分で入っていくことによってわかることがあり、そこから数珠つなぎになっていった」。また小林さんは、「先が見えているチームはつまらない」ので、これまでも「先が見えないような場所に身を置くことを選んできた」。今年のシングル「forgive(許す)」の歌詞は櫻井和寿さんが書いたそうですが、この「許し」について、「自分自身をも“許し”ていく、ということも含めた“寛容さ”」が必要であると話しました。
ここで中島先生は、「巻き込まれる力」というのは「自分のなかにどれだけ“余白”や“スペース”があるか」ということだ、と話します。「相手の行為や主体性にどうやって沿っていくのか。」先ほど、ゲストのお二人がそれぞれに違和感を感じた言葉として「寄り添う」が出てきましたが、これに対してセンターでの利他に関わる用語の1つとしてよく登場する「沿う」という言葉。この2つは似ているようでいて、実は「沿う」の方は塚本先生が言うところの「自分自身が変わる」に近いのかもしれません。
「巻き込まれた人たちは、いかにその中でたくさんのケアを行っているか」
伊藤亜紗
●流動性とサステナビリティ
そんななか、塚本先生がZoomのマイクをオンにしてから「あれ、何か言おうと思いついたのに忘れちゃった。何だっけ」と言いながらしばし首をかしげたのち、「ああ」と思い出してものすごいお話を始めます。そもそもデザインの現場ではいろんな人と打ち合わせをする、いろんな人との小さな打ち合わせが積み上がって、少しずつ意思決定されていくのが「デザイン」だ、と塚本先生。「お施主さん、近隣の人、法規的なところをチェックする機関の人、構造設計の人、設備設計の人、というように、建設産業として打ち合わせしていかなければならないのは、産業構成として整っていて、スムーズに事が進むよう制度設計されている。」
家を建てるときの果てしない打ち合わせに次ぐ打ち合わせを想像すると、なんとなくわかるような気がします。しかし塚本先生はここで、「スムーズに事が進むよう」設計されているはずの打ち合わせに、「あ、この人を入れてなかった」というようなことがしばしばある、と言います。「動物、地中の生物、水や空気の動き、今生きていない人、まだ生まれていないけど将来必ず来る人。そういう形で、打ち合わせの輪をどこまで広げられるか。」
思いもよらなかった展開に驚愕しながら鳥肌を立てていると、さらに塚本先生は次のように続けます。「人間以外の参加者、打ち合わせしなきゃいけないモノ、生き物、生命が入ってくると、今度はそれをどうケアするかということでヒトがまた集まって、結果的にネットワークができていく。これは物理的な建築と一緒に立ち上がってくる、ネットワークの方の“建築”でもある。」過去の連環を断ち切って自由になるという意味で必要とされてきた、建築における「空間」を一度相対化して、「連環へのつなぎ直し、再構築」に向かうべきだ、と話しました。
「打ち合わせの輪をどこまで広げられるかがデザインの面白いところ」
塚本由晴
●都市の限界と自然
そして中島先生が言うところの「流動性」を、今の資本主義社会、特に都市部で乱用されている「フレキシビリティ」と混同しないということがすごく大事だと話します。「今の経済では1〜2週間でニーズが変わっていく。人間はそんなにずっとフレキシブルにやり続けてくことはできない。“流動性”というテーマを考えると同時に、“人間本性(human nature)”は過度のフレキシビリティに耐えられないということの意味を21世紀は考えなきゃいけない。」
「僕らがつくってきた“都市”は、明らかに限界値を超えている」
國分功一郎
この國分先生のお話に応答して塚本先生は、「ちょこっと仕事」はレジャーの新形態だと話します。「どこかで不可能性の原理(これはできないから、これにしとこう)に苛まれている」都会に対して、「里山ではやればやるほど自分が関わったところがよくなっていくという感触から、可能性を原理にした生き方ができる。精神的に楽になってとても楽しい」。その上、もしやってみて助けが必要になってくると、不思議と誰かが助けに来てくれて、ますます可能性原理で生きられる、というのです。なんて楽しそうなんでしょうか。
さて、一方小林さんの応答は次のようなものでした。「自然には厳しい部分もあるけれども、人間も自然の一部とも言えるから、間に自然が入り込んでくることで、人間関係も円滑にいく。他人の力や他の要素に巻き込まれて、うっかりすると突破口を見つけて『これいいじゃん!』みたいなものが出来上がっていく。音楽も自然の要素でできている。それらを媒介にすることで円滑な出会い方が見つけることができて、しばらくそういうことをやっていると信頼関係みたいなものが生まれ、“きっとそのうちなんとかなる”と思えるようになる。」
「周波数を切り取ると音階になり、時間軸を切り取るとリズムになる」
小林武史
●「原点」について
まずは若い頃に東京ならではの不思議な建築を集めて『メイド・イン・トーキョー』や『ペット・アーキテクチャー・ガイド・ブック』といった本を作ったという塚本先生は、「バイリンガルで作ったので世界の人たちが結構読んでくれて、東京に来るとみんなが私に会いにくるんですが、“都市の人”というふうに思われている」。しかしここで塚本先生が言いたかったのは、「街の中にも都市ならではの生態学(エコロジー)がある、ということ。敷地の中だけが自分の自由で責任範囲で、その中でしか何もできないという考え方ではなく、周りにあるものを巻き込みながら“場”を作っていくような事例を集めた。」
小さい頃は昆虫採集が大好きだったという塚本先生は、こんな風にも話します。「昆虫そのものを見つけるということはたぶんできなくて、昆虫の好むもの(好きな場所、現れる時間など)を知って、そこに自分も合わせて行ってみると、会える。それが昆虫採集です。建築を見るときも、作るときも、そういった何か生態学的な連関や関係性の中にあるものを作っていきたいと思っています。」最後にご自分でもおっしゃっていましたが、かつては東京だったフィールドが現在は里山にあるというだけで「基本的な考え方は変わらない」。ただ「敷地」という考え方ではなく、「連関」の中で建築を考えていくように、世の中はシフトしていかなければならない、と現状に対する強い懸念を示しました。
「生態学的な連関や関係性の中にあるものを作っていきたい」
塚本由晴
「批判するのではなくそれを捉え、分断に終わることなく響かせていく」
小林武史