「モノから利他を考える」というお題を受け取った時、私は困ってしまった。なぜなら、モノに結び付けて語られる歴史上のエピソードがいかに怪しいのか、当時の様子をリアリティを持って伝えられるモノがいかに少ないのか、を伝えるのが自分の科学史の研究と教育の目的のひとつだからだ。悩んだ末に、「歴史を伝える資料」の残りにくさの事例として講義中に紹介している、モノにまつわるエピソードについて書くことを決めた。
図1. 東工大で見つかった電流計(登戸研究所資料館所蔵)
消されたはずなのに残った電流計
「これは東工大から見つかったモノです。いったい何を伝える歴史資料でしょう?」
東京工業大博物館・資史料館と共同で運営する2年生向け文系教養科目「教養特論:大学史」において、受講生に向けてこんな質問をしている。写真に写っているのは古びた電流計で、明治大学生田キャンパスにある平和教育登戸研究所資料館に保存されている。目録によると、1945年5月に東京芝浦電気(現・東芝、当時は東京電気のロゴを使用)によって製造された直流電流計で、東工大の倉庫から発見されたという。なぜこの電流計が生田キャンパスの地で保存されているのだろうか?
実はこの電流計は、東工大関係者が第二次世界大戦中に特殊兵器の開発に関わっていたことを間接的に示す証拠である。目録の備考に書かれた説明を引用する:
「タ63」の書き込みあり。1945年5月製造。東京工業大学旧蔵。同学井上助教授(当時)によれば、戦後東工大に所属した登戸研究所関係者が残したもので、松川村で使っていたものとのこと[1]。
電流計の表面には「タ63」と書かれている。「タ」の文字は、特殊兵器の中でも風船爆弾や電波兵器を開発していた陸軍登戸研究所第一科(後に移転して多摩陸軍技術研究所と呼ばれた)で使用された機材の目印である。研究所の第一科は、1945年3月までに風船爆弾の開発と打ち上げを終えた後、長野県松川村に疎開した。電流計は1945年5月製造であることから、松川村に疎開した所員たちが使っていたと推察される。陸軍登戸研究所およびその研究内容は軍の内部でも秘密となっており、敗戦と同時に研究所の存在自体を隠滅するように通達が出た。明治大学生田キャンパスは、歴史から消された軍事研究所の疎開前の本拠地があった場所であり、今でも当時の建物が平和教育登戸研究所資料館として保存されている。
消されたはずの軍事研究所の機材が、なぜ東工大の中から出てきたのか。電流計を井上徹氏から託されて寄贈した渡辺賢二氏は、次のように理由を説明してくれた:
秘密戦兵器の開発に携わっていた研究者たちは、戦後に各地の大学で職を得た。当時は実験機器が貴重だったので、混乱に乗じて機器を持ち出し、新しい職場に持ち込んで使っていた[2]。
渡辺氏曰く、軍事研究所の機材が大学から見つかる事例は、東工大に限らず、稀にあることだそうだ[3]。見つかった電流計は、東工大と陸軍登戸研究所の間を結び付ける状況証拠に過ぎない。電流計をじっと見つめても、これを東工大に持ち込んだのは誰だったのか、これを使って歴史から隠滅された兵器開発をしていたのは誰だったのか、遡ってたどることはできない。それでも、電流計のようにわずかに残ったモノから、消された歴史の裏側を想像することができる。他に残ったモノがほとんど見つからない以上、電流計が間接的に伝えるストーリーから先には進めなかった。
電流計はどのように東工大に持ち込まれたのか
「誰がどのように電流計を東工大に持ち込んだのか」について、私は調査を半ば諦めていた。それには主に二つの理由がある。第一に、誰が陸軍登戸研究所に関わっていたのかわからない。東工大関係者の中には、こんにゃく糊研究で知られる畑敏雄(1913-2009)、セラミックス研究で知られる河嶋千尋(1905-2003)、合成ゴム研究で知られる神原周(1906-1999)のように、陸軍登戸研究所からの委託研究を行ったことを回想録として書き残した研究者もいる。彼らの名前は、わずかに現存する陸軍登戸研究所の嘱託研究者の名簿には載っていない。第二に、戦争中の兵器開発について具体的に言及した回想がなかなか見つからない。畑、河嶋、神原の回想録は晩年に教え子や後輩たちに向かって語られたもので、偶然の巡り合わせで私の目に触れたものだった(彼らの回想録と戦争体験については、また別の機会を作って紹介したい)。東工大関係者の書いた膨大な著作物の中から、誰が行ったのかわからない、書き残されたのかすらわからない証拠を探すのは、干し草の中から針を探すように無謀なことに思われた。
本稿を執筆するにあたって、改めて平和教育登戸研究所資料館を見学し、登戸研究所関連の先行研究を見直した。風船爆弾に関しては、近年になって1944年9月21日付、1945年度、1945年1月1日付の嘱託研究者の名簿が発見されている[4]。いずれの名簿にも、東工大学長だった八木秀次(1886-1976)の名前が顧問(全般指導)として記載されている[5]。最後の1945年1月1日付の名簿には、1944年7月12日業務発令として東京工業大学教授の森田清(1901-2005)の名前がある。森田は超高周波工学を開拓したことで知られる人物である。森田については、本人の著作物のタイトルを検索した限りでは、回想録を残していないようだった。しかし念のため、教え子の書いた文章を探してみたら、思わぬ記述を発見した。
森田の教え子の末武国弘(1920-2017)は、東工大の恩師の記録を集めた『東工大史記』(1995)の中で、興味深い回想を残している[6]。1944年に東工大を繰り上げ卒業した末武は、特別研究生として森田がB29を撃墜するためのロケットを開発するのを手伝ったという。1945年3月10日の東京大空襲の後に、森田研究室は長野県松川村に疎開した。「なんと隣の部屋は「風船爆弾」の開発に当たられた大月[大槻俊郎]少佐の研究室であった」と驚き混じりに書いている様子から、末武は師匠の森田その人が風船爆弾の嘱託研究者であったことや、陸軍登戸研究所第一科全体が松川村に疎開していることを知らなかったようだ。疎開先に届いた研究機材を開いて、いよいよ研究を開始しようとした翌日に終戦の8月15日を迎えたという。終戦直後の回想をそのまま引用する:
翌朝、大月[大槻]少佐は、自分の研究室にある軍の機密のものは焼却するが、電気部品などは皆東京工大に寄贈するから、今後の復興に役立てなさいと言われた。
その頃、松川小学校の校庭から煙が上がっており、軍関係の機材を焼却しているとの知らせに、同小学校へ行き、担当の岡本[中本敏一郎]少佐に「大月[大槻]少佐のところから沢山部品を頂いたのですが、もったいないので、ここでも焼却するのを止めて東京工大に寄贈して頂きたい」と申し出たところ、いきなり軍刀を抜いて「そこになおれ!この非常時になんたることを云うか」と詰め寄られた。その場におられた大月[大槻]少佐が止めて下さらなかったら、筆者は、今こうしてペンをとっておられなかったかもしれない[7]。
末武は、機材を東工大に持ち帰ろうとして、軍務に忠実な将校に危うく斬られそうになっていた。続いて、引き揚げ準備の梱包をしている最中にアメリカ軍がジープに乗ってやってきたこと、森田がアメリカ軍と英語で渡り合ったおかげで何も取られずに済んだことが書かれていた。森田研究室の人々は、幾多の困難を乗り越えて、松川村で使われていた機材を東工大に持ち帰ったのだった。
電流計は、もしかしたら森田研究室の人々が持ち帰ったものかもしれない。あるいは、畑、河嶋、神原のように、名簿に名前はないけれども陸軍登戸研究所に関わった人が受け取ったものかもしれない。それ以外の、全く別のルートで東工大に持ち込まれたのかもしれない。ひとつだけ言えるのは、残されたモノの背後には、人々の努力の積み重ねがあったということだ。特に、消されたはずの機材の場合には、日本軍の証拠隠滅の指示に従わなかった大槻、純粋に将来の研究のために所望した末武、アメリカ軍と交渉した森田のように、時代の大勢に逆らう行動の積み重ねがあった。最先端の科学技術を追求するあまり古い機材をすぐ捨てがちな東工大において、電流計が1945年から1994年までの約50年間処分されずに残ったのは驚くべきことだ。井上氏が電流計を発見して渡辺氏に託したこと、渡辺氏が地元の高校生たちと一緒に約15年間保管したこと、2010年に明治大学が資料館を設立して資料として受け入れたことなど、様々なめぐり合わせが重なって、現代の私たちに見える形で残ったのだ。
電流計から考える、モノや記録を「残す」という利他
モノや記録は残そうと努力しなければ残らない。特に兵器開発のような「負の歴史」は、容易に消されてしまう。東工大における負の歴史は、兵器開発のような軍事目的の研究だけではない。大学関係者が水俣病の原因と被害拡大を作ったという公害の歴史も、語りたくない負の歴史に該当するだろう[8]。
モノを歴史資料として残すこと、特に、自分がいなくなった後の誰かのために残すことは、広く利他的な行動と言える。もちろん、「敵に知られたくない」あるいは「後世でこう評価されたい」などの意図のもとに記録を不自然に選択したり加工したりする場合には、モノを残す行為でも利己的と言えるだろう。一方で、消えてしまいそうなモノを未来の誰かのために残す努力には、その時点の利害だけに依らない動機が必要だ。モノを歴史資料として収集・保存・研究・展示している博物館や資料館は、利他的な側面を持つ組織である。いったん収集・保存されたモノが、どのような文脈で研究されたり展示されたりするのかは、後世の人に委ねられている。
東京工業大学博物館・資史料館と共同で「教養特論:大学史」を担当した4年間の中で、自分が東工大で担うべき役割をずっと考えてきた。自分の役割は、受講生に対して、モノや記録を残すことがいかに難しいのかをリアリティを持って紹介し、目を凝らして過去と向き合って欲しいと伝えること、そして将来はモノや記録を残す側に回って欲しいと伝えること、ではないかと今は考えている[9]。この役割をもっと構造的に分析して、しっかり言語化できるようになることが、未来の人類研究センターでの活動を通じて達成したい私の目標である。
注
[1] 明治大学平和教育登戸研究所資料館の目録より。目録は一般公開していないため、訪問して閲覧した(2022 年5 月14 日引用許諾)。
[2] 渡辺賢二氏は1994年頃に井上徹助教授(当時)から電流計を託されて、資料館が設立された2010年までの15年間、法政大学第二中・高等学校の生徒たちと一緒に陸軍登戸研究所について調査しながら保管していた。2019年7月6日に渡辺氏から伺った話しに基づいて記述(2022年5月13日引用許諾)。
[3] 例えば、化学兵器や生物兵器の開発をしていた陸軍登戸研究所第二科が収集していた文献は、静岡大学工学部に寄贈されたという。渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦 科学者たちの戦争』吉川弘文館,2012年,162頁。
[4] 松野誠也「第九陸軍技術研究所における風船爆弾の研究・開発に協力した科学者・技術者」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第4号(2018年)、1-12頁。
[5] 八木秀次は八木式アンテナの発明者として知られる人物で、1942年3月から1944年12月まで東京工業大学学長を務めた後、内閣技術院総裁として科学技術動員のトップに立った。
[6] 末武国弘「いつもお若い森田先生に乾杯!」『東工大史記 東京工業大学人国記』蔵前工業会発行,1995年,80-83頁。
[7] 前掲書,82頁。
[8] 1931年にチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造部門を設計した東京高等工業学校卒業生の橋本彦七(1897-1972)と、1959年に水俣病の有機水銀説に反対してアミン中毒説を発表した東京工業大学教授の清浦雷作(1911-1998)のこと。西村肇,岡本達明『水俣病の科学増補版』日本評論社,2006年。
[9] 記録を残すことの重要性を伝え、記録の作成と共有を実践する試みとして、修士学生向けの科目「横断科目:東工大のキャンパスに親しむ」を2022年度2Qに新規開講する。未来の人類研究センターの提供科目であり、東京工業大学博物館・資史料館と共同で準備を進めている。
[2] 渡辺賢二氏は1994年頃に井上徹助教授(当時)から電流計を託されて、資料館が設立された2010年までの15年間、法政大学第二中・高等学校の生徒たちと一緒に陸軍登戸研究所について調査しながら保管していた。2019年7月6日に渡辺氏から伺った話しに基づいて記述(2022年5月13日引用許諾)。
[3] 例えば、化学兵器や生物兵器の開発をしていた陸軍登戸研究所第二科が収集していた文献は、静岡大学工学部に寄贈されたという。渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦 科学者たちの戦争』吉川弘文館,2012年,162頁。
[4] 松野誠也「第九陸軍技術研究所における風船爆弾の研究・開発に協力した科学者・技術者」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第4号(2018年)、1-12頁。
[5] 八木秀次は八木式アンテナの発明者として知られる人物で、1942年3月から1944年12月まで東京工業大学学長を務めた後、内閣技術院総裁として科学技術動員のトップに立った。
[6] 末武国弘「いつもお若い森田先生に乾杯!」『東工大史記 東京工業大学人国記』蔵前工業会発行,1995年,80-83頁。
[7] 前掲書,82頁。
[8] 1931年にチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造部門を設計した東京高等工業学校卒業生の橋本彦七(1897-1972)と、1959年に水俣病の有機水銀説に反対してアミン中毒説を発表した東京工業大学教授の清浦雷作(1911-1998)のこと。西村肇,岡本達明『水俣病の科学増補版』日本評論社,2006年。
[9] 記録を残すことの重要性を伝え、記録の作成と共有を実践する試みとして、修士学生向けの科目「横断科目:東工大のキャンパスに親しむ」を2022年度2Qに新規開講する。未来の人類研究センターの提供科目であり、東京工業大学博物館・資史料館と共同で準備を進めている。